もし、自分の家族や友達が、事故や病気で亡くなってしまった場合、とても悲しくてさびしい思いをすると思いますが、私はそれと同時に
「悲しいけれど、死んでしまったものはしょうがないなあ・・・」
と、きっと考えます。 冷たい奴だなと思われるかもしれませんが、「悲しみ」と「しょうがなさ」は私の中で両立しえます。
どこまでも悲しいですが、どこまでもしょうがないんです。
「いや、しょうがなくないんだ。何故死んだんだ。絶対納得いかない。」
と言って、端から端まで子細に分析、考察し尽くして、考えに考え抜いても、死んだ人は息を吹き返してはくれない。
反対に、人間が創り上げた社会、制度、法律、常識等々は、全く「しょうがなく」ありません。 これらはとりあえず創ったものであって、生物に訪れる「死」のような、不変の事実ではないからです。
「こういう社会だからしょうがない」
「法律で決まっているのだからしょうがない」
「これが常識なんだからしょうがない」
全くそんなことはない。納得がいっていないなら文句を言えば良いんです。
文句の表現は何でも良い。 デモ、演説、書籍、演劇、歌、詩、等々・・・。
ただし、諸々の表現行為がある中で、もっとも稚拙なのが「犯罪」特に「殺人」です。
本人は「やってやった」と思うかもしれませんが、これだけ稚拙な形で表現を行っても、誰もこれをある種の「文句」や「警句」としては認めません。
大衆には恐怖と憎悪が残るだけです。
「文句を言うにも資格ってものがあらあねえ」
とは立川談志師匠の言ですが、社会に世間に、どうしようもない恨みがある。それ自体は全然いいんです。 ただ、恨みがあるなら、ちゃんと世間にそれを「文句」として認めてもらう、あるいは認めさせるために、表現を成熟させていく努力を怠ってはならないと私は思います。