発散しなかったから参ってしまった訳ではないのかも・・・

 始終文句を言っていることから、傍目にも大変なのがこちらへよく伝わってくるような人は、実は意外と精神的に安定していて、反対に、全く文句を言わないから、あの人は強いんだなあと思っていたところが、ちょっとしたきっかけで折れてしまったりすることがある、その根底には、

「文句を言うことによる発散」

があるのだろうとぼんやり思っていた。つまり、全く文句を言わなかった人は、発散していなかったから、ちょっとしたきっかけで折れてしまったのだと。よくある論だろうし、別段私もそれについては疑問を持たずにいた。

 だが、自身の経験、それから自身の内部で起きていることをふまえてよくよく考えてみたところ、初めてそれに対して疑問が湧くようになった。何故と言うに、どちらかと言えば私は、普段ほとんど文句を言わない部類に入るのだが(今まで散々に「こういうことで怒っている」というのを書いてきたではないかと思われるかもしれないが、それは日常たまに感じた怒りを大事に育てておいているだけのことで、普段はほとんどの時間を穏やかな状態で過ごしている)、それは、

「本当は文句を言いたいのに我慢している」

からではなく、文句自体がそもそもそんなに胸に浮かんできていないからだということに気がついたからであった。つまり、

「もっと言いたいことがあったら言っても良いんだよ」

と言われても、別に何も言うことがなかったりすることが、日常においてはほとんどで、文句を言わないのは何かを溜め込んでいる訳では必ずしもなかったりするのだ。

 では、必ずしも溜め込んでいる訳ではないのに、何故文句を全く言わないような人たちの方が、ちょっとしたことに対して脆かったりするのだろう。それはおそらく、社会という概念との距離感の問題が関係しているような気がする。

 まず、文句をしょっちゅう言っている人たちは、比較的社会というものとの距離感が近いように思う。それは関係が濃いと言い換えても良いが。もっと言えば、社会という概念と自己とが一体となっている。だから、他人や、はては自然環境なども含め、傍目には文句を言う必要などないように見えることでも、見境なく片っ端から文句を言っていくようなことになったりする。それは、自身と一体であるはずのものが、自身の思いにそぐわないような形で動いていることが不快で仕方がないからだ。そして当然、他者や外的環境は「私」ではないから、「私」と違った動きをするのが当然であって、そのためにこういう人たちはのべつ文句を言っていなければならないようになる。

 こうしてみると、一見大変そうなだけに思えるが、しかし一方で、社会と一体であるという感覚が強いので、文句を言う割には、その基盤を支える人数の多さゆえ、安心感を得られるので、ちょっとやそっとのことでは精神を折られないでいられたりする。文句を言う割に、と書いたが、社会という大きな基盤を自己と一体とみなすこと即ち、文句を言い続けることを選ぶことでもあるのだ。

 反対に、文句をあまり言わない人たちは、社会というものとの距離感が遠いのではないか。そうするともちろん社会が自己と一体にもなっていなければ、そもそも一体化しようにも、社会というものが薄すぎて、どこにあるのかが分からなかったりもするだろう。

 その場合、自然と基盤は自己の下へと築かれることになるから、周りの他者や自然環境は、自己の基盤を揺るがさない限りにおいては別に私と関係がないものになるので、当たり前だが文句を言うことは自然と少なくなる。というよりほとんど文句が見つからなくなる(他者に対しては文句ではなく、提案などの選択肢が残るだけだ)。

 こうやって見てくると良いことばかりのようだが、しかし如何せん自己という基盤は自分ひとりで支えているものなので、社会という基盤に比べれば安定感に欠けるし、それに、他者と共通のものを支えていないということで不安感も強い。そうすると、文句がなかった割に、ちょっとしたことであっさり精神的に折れてしまったりするようなことが、言ってしまえばごく自然に起こるのではないだろうか。

 文句がなかった割に、と書いたが、文句の少ない、あるいは見つからない基盤を選ぶこと即ち脆い基盤の上に立つことであるし、脆い基盤の上に立つこと即ち、文句の少なさを選ぶことでもあるのだ。

 選ぶと書いたが、もちろん、選ばざるを得なかったという例がいくらもあるだろうことは付け足しておかなければならない(例えば、いくら「社会の為」などと言われて、一生懸命に目を凝らしてもそんなものは一向見えてこず、仕方がないから自己の下へと基盤を築かざるを得なかった、という場合など)。