<315>「あたふたする人の静かさについて」

 その人の言い分はこうだ。

「何の備えもせず、それでいてそんなに平気そうにしているのはおかしい、どういうつもりなんだ、って? どういうつもりなのだろう。私だって、怖ろしくない訳はない。怖ろしくて仕方なくて、事が起きたら他の誰よりも一番あたふたするだろうし、もうこれ以上はないという程の全速力で逃げていくに違いないのだ。ただ一方、内心で普段から何を思っているのかと言えば、自分に対し、

『お前なんか、そういう機会が訪れたら、そのときにめちゃめちゃになってしまえばいいのだ』

というようなことを思っている。しっかりとした備えをし、何とか災厄の後の被害状況をマシにしたい、などとは考えず、たとい生き残ったにせよ、お前は準備も何もしていない状態であったがために一番困ることになれ、一番困ればそれでいい、と思っているのだ。どうしてかそんなことを思う、どうしてそんなことを思ってしまうのか分からないから自分でもひどく驚いている。そうしてあんまり何度も何度も驚いてしまったがために、驚きの表情とでも呼ぶべきものをだんだんになくしていってしまって、そしてついに、外側から見れば、それは何の動揺もなく落ち着いているような顔と同じに見えるようにまでなってしまっていたのだ。どうして何の準備もせずに落ち着いていて平気そうにしているんだ、という疑問に対する回答はこれだ。

 不思議なことに、事が起きれば情けなくヒャーヒャー騒いで逃げ惑うはずの私は、自身の内心に対して驚きつつも、そこに不一致というか、矛盾は感じていないのだ。飛行機が上空を通り抜ける、その際の音は凄まじいと知っている、知ってはいるが、やはり現実にその音を聞けば、たとい構えていたとしても驚いてしまう、というようなことで、驚いてはいるが、逃げ惑う私は、内心のひどい投げやり、暴力的な放棄を、完全に受け容れているのだ、承知しているのだ。完全に受け容れていることでもやはり驚くのだ。それこそ、表情がなくなる程にまで何度でも、何度でも驚く。一番平気そうにしている人間に一番何の準備もないとは・・・。これはおかしなことだろう、おかしなことだろうか? そんなことが私に分かった試しがない・・・」

と。

<314>「椅子がある」

 それを正しさだと思い込んでいたのは、相手の放つ腹立ち紛れの爆発の確かさ、その振動の強さの為だったと知り戸惑うし、腹立ち紛れにただ声を荒らげただけのことが、相手に正しさなのだと認識されていて戸惑う。実は何も分からない者であったのに、そんなにも簡単に私が正しさのひとつとして(勿論間違って)他人に機能してしまっていることに驚くし、あまりにも簡単に、私が正しさのひとつの在り方として許されていると、やはり戸惑う。ふうんなるほど、こういうスタンスもあるのかもね、いいね、などと、簡単に認識され、簡単にひとつの椅子を用意されてそれが除かれることもないとなると、果てしなく不安定な心持ちになる。突拍子のなさも、何となく同じ部屋で同じ席を用意される、それは何かが間違っているのではないか。私が何かを掴み損ねたか、椅子を用意した人の方が掴み損ねたか、いずれにしろ、私は立っている。もはや、座ることを妨げる何ものも存しないし、座ったところで何らかの危害が加えられる恐れもない。立っていようが座っていようが、同じことなのだ。なのにどうして座らないんだと周りの目が口々に言っている。いや、立っていようが座っていようがどちらにせよ結局同じことだからこそ、やはり私は立ったままでいるし、今後もしばらくそのままであろうという予感がする。これは意地なのか、いや、何かに力み返ってこうしているのではなく、ただ呆然としているだけなのだろうと思う。

<313>「追われ、跳ね返し」

 追い込まれることに何かの足りなさを感じる。追い込まれておいて足りないも何もないのかもしれないが、それは逃げ場が依然として見つかるから、という話とは少し違う。自分ひとり分の空間は決して失われない感じと言ったらいいだろうか。きゅーっと極端に押し込められていくと、ある瞬間にきてそれがポンっと跳ね返るのを感じる。追い込まれるというのが、外的状況に関係のない完全に主観的なものなのだとすれば、そういう跳ね返しの運動の後で、追い込まれ方の足りなさ、拍子抜けを感じてもおかしくはないのかもしれない。しかし外的状況をも含めて追い込まれていると言うとするならば・・・何かに気づいていない可能性がある。気づいていないことが果たしていいことなのかどうか、それは分からないが、それによって気持ちが軽くなっているのならそれでもいいのだろう。ただ、しっかりとその追い込まれを認識することによって、つまり気づくことによって、ぐっとそれを手元まで呼び込み、綺麗に跳ね返すことが出来ていたのかもしれない。何かの足りなさを感じるということの底には、しっかり跳ね返しそびれたという感情もあるのだろうか・・・。

<312>「付き合い方」

 そのままに出合い、そのままを見、良きところで去る。そしてまた赴き・・・というように、人の作品などを経過出来ないのは弱さか、辛抱のなさか、迂闊なのか、それしか選択肢がなかったのか・・・。

「これは一体どういう意味だったのだろう? 何を伝えたかったのだろう?」

そんな決まり文句で始まってい、終わってい、その流れが全体を貫いてい・・・そういったことにすごくうんざりするのだ。個人の残したものに対する社会の接点の持ち方は、それしかないのか。つまり意義という側から寄っていかなければ気が済まないというよりは、意義というもので寄っていくことが即ちそれ社会なのだ。つまらない。虚しくして見るということがない。それだからやはり個人でいなければならない。というのは、社会の目と同じになったつもりにならないということだ。そんな目を持たないようにするということだ。

<311>「暴走通りの微笑み」

 私が見たものはそんな通りではなかった。荒くなる息を潜め、いたずらに視線が薄枯れていく。昨日今日の夢、昨日今日の夜、昨日と今日の優しい影を確かめて、それは走った。否、走るまでもなかったのだが。

 動揺するのは後でいい。もう一度見る景色は大分鈍いのだが。階段を、いきおいよく駆け下りて、検討は走る、走る、走る走る走る・・・。

 帰った記憶ごと、何処かに置いてきているそのひたすらな名前はいちどきに姿を消し、乱暴に振る頭どもを丁寧に数え立てる。ああ、情けない身体を下に投げ、捨て去り、私は逃れる。暴走通りの微笑みを不愉快に、誰かと共に聞いている。

<310>「あたふたする機械」

 理解を超えることに対してあたふたする機械、その正確な作動だけを期す。故障した場合、何も感じないのか、あるいは冷静な判断を持ち出すのか。やけに落ち着いている状態を眺めて、これは故障だと見極めることには大変な困難が伴う。また、正確に動いているときと、つまりあたふたしているときとの見た目の差があまりないときている(あたふたしているのは内心だけで、表情には出にくい)。

 そのことだけしか考えられなくなるか、全体的にぼんやりとして、思考能力自体を一瞬失っているか、そのどちらかであるときは大丈夫だ。むろん、外で起きていることは理解を超えているのだから、そういった意味では大丈夫じゃないのだが、そういったときにちゃんとあたふたしていればそれでいいのだと決める、ここでは決める。ここでもし何かの判断が為されるとして、それが的外れ、迷いでないとしたらば一体何であろうか、と言ってみて良いと思っている。

<309>「不透明な暗い夜」

 聞き慣れた歩道は既に褪せ、結び、不人気をいちどきに降って、暴走通りの対を成す。暗い夜よ、香り立つ、不透明な暗い夜よ。今は私も残されていない。やがて飽き、膨らんだいやらしさ、そっとしておいて、棒立ちの人間を素早く絡め取る。

 遅さはつまり、内緒のとどまり。しかし、どうだろう、そこは諦めた道だ。禁止の轟音が見解をひび割れさせ、無感動の物質を優しく抱く。ふらつきつつ、また、ふらつきつつ、大事そうに夕べをとくと眺める。あくまでも高い音を、触っているのは誰だ? それは残暑の休憩時間だ。実感を失った、大切でも大切でない道行き。