<290>「情報と歩くゆうべ」

 表面的な変化に興味を見出せなくなる。すると、答えはどこかに退いた。道であることをやめ、空であることをやめ、そそくさと帰り、薄くなり、のっぺらぼうの地面をただひたすらに見せている。

 くだらない絡まれ方に戸惑い、しかし上がるテンションはもうひとつ下がらず、口も開けなくなるほどの疲労時にしか姿を見せない、その人は、ほとんど情報だと、情報だけだと言ってもいいのだ。戸惑いながら、くだらない返しをすると、何かが、いや全部がぴたっと止んだ。もう一度復活はしない停止であることを即座に悟り、逆に疲労がすーっと抜けていくように思えた。見慣れた風景が引き戻され、どちらに歩いていくのか、ためらうことがどうにも滑稽に思えた。

<289>「枠組みをふっと外れて」

 このことから、どうせ死ぬんだから、まあまあ焦りなさんなという語りかけが、有効に響くこともあれば、そうもいかずに空しく響いてしまう訳も分かってくる。生きているのが嫌なだけなら、その通りどうせ来る寿命を待てばいいのだが、生に耐え切れなくなっただけでなく、生死という枠組みそのものが嫌になっていたとしたら、そのうちどうせ死ぬことは何の慰めにもならない場合がある。というより、昨日も書いたように、自死はそういう運動、枠組み自体から脱出しようとする運動なのだと考えた方が良さそうだ(結局、脱出しようとしても、死ぬか生きるかの二択しか待っていない訳ではあるが)。何故なら、それこそ生きるのが嫌なだけなら、焦らずにそのうち死ぬのを待てばいいだけのところへきて、それはわざわざ自分で命を絶とうとしてしまう動きなのだから。

<288>「死から逃れる」

 寿命が尽きて死ぬのと、自ら死ぬこととの間には、何かその、過程の相違というだけでは片付けられない相違がある。木の枝で首を吊ろうとしていた人間、しかし木の枝が折れて下に落っこち、怪我はしたものの何とか一命を取り留めると、

「助かった」

と言ったという笑い話があるが、この奇妙な矛盾には、何となく物を考えさせずにはおけなくするところがある。

 つまり、自死は、死のうとしていることは確かだろうけれども、それと同時に実は、死からをも逃れようとしている運動であるのではないか。さすれば自死の計画が失敗に終わり、それにもかかわらず助かったと漏らしたのも、ただおかしいとばかりは言えないような気がする。ともかくも死からは逃れたのだから。生き物の自然な状態変化、それが生死であり、それは究極においてひとつなのだと考えれば、自死とそうでない場合との相違が一応は納得出来るようになる。生からだけ逃れようとしている訳ではないのだ。また、生から逃れようとすること即ち死からも逃れようとすることなのだから。

<287>「点の上にいる」

 一体私には何の苦しみもないのではないか。そう思うことが頻繁にある。それは、過去の記憶の否定でもなければ、私より単純に苦しみの総量が多いように見える他人と較べてのことでもない。苦しみのなさという空の場所に、突然スポッと嵌まるような感覚だ。それは何か、嬉しいこと楽しいことがあったが故の状態なのではないか。そうではないのだ。むしろそれらは苦しさを多分に含む。楽しかったが為にその後の反動が大きいという話ではなく、もうその楽しさの中に苦悩が存分に含まれている。

 苦しくも何ともないと感じてしまっているのは錯覚なのだろうか。自分が自分で苦しくないと思っているのなら、それはそれで、その瞬間に間違いはないのだろう。しかし、このぼんやりとした状態は何なのだろう。苦しくもない地点で、ゆっくりと寛いでいるという感じでもないのだ。本当の場所かどうかが分からず、変な時間に放り込まれている感じがする、と言った方が正確かもしれない。

<286>「夢から剥がれて」

 夢の光景があまりにもゴチャゴチャしていて、起きてすぐには気がつけないにしても、しばらく時間が経つと、起き抜けに夢の中のあんなことを本当のことだと思って、一瞬でも頭がそのまま動いていたという事実に、思わず笑みがこぼれる。そこには順序も辻褄も何もあったものではない。

 しかし、更に時間が経って、仮にここではその夢から一年経ったとしておこうか、あの夢は依然として私の中でゴチャゴチャであるのかどうか。勿論、全体を思い出せれば、なるほどゴチャゴチャだったと言えるに違いない。しかし、場面場面をバラバラに思い出したとしたらどうか、その現実らしさたるや。一年経った後の私は、そもそもその夢が一年前のものであったことすら忘れ、しばらくその、過去の夢の一場面を現実と同等に認識してぼんやりした後、いやいや、あれは確か現実ではなくて夢であったのではないかと、ブルブル頭を振っているような具合だ。

 もしかしたら、更にもっと遠い日に見た夢など、頭の中では当たり前のように、過去の事実として扱って、反芻していたりするのかもしれない。

<285>「動力は」

 何かに非常に勇気をもらう、そんなことは俺にはないのだよ、などと言えば、格好はつくのかもしれないが(別に、格好良くないかもしれないが)、しかし例外なく私にもそういうことがある。ただ、勇気をもらったからしばらく大丈夫かどうかというのは、正直なところ分からないというのが実際だろう。しばらく大丈夫なような気が、その瞬間に強烈に訪れはするのだが、それはその瞬間にそういった強烈さが襲うという以上の話でもなければ以下の話でもないので、実際にしばらく大丈夫かどうかとはあまり(全くと言ったら言い過ぎか)関係がない。

 そういう感覚、というか、物事の運び方に気がついてから、何かから勇気をもらうことで、生活全体を乗り切ろうとする動きをあまりしなくなった。もちろん、何かに勇気づけられる経験を意図的に避ける訳でもなければ、軽蔑することもない。その体験はその体験で、むしろ進んで受けたりもするのだ。ただ、繰り返しになるが、今勇気をもらえるかもらえないかということと、しばらく大丈夫なまま過ごせるかどうかということとの間に、深い結びつきを見ていないだけだ。

<284>「無縁と時間」

 まるで無縁、無関係なものに対して全く無警戒でいるものだから、あっという間に距離を詰められてしまった。自分と対象とが一体になって、何故だかこの関係がどこよりも古いような気さえしてくる。それは、時間というものを持たないためか(つまり、今は、1億年以上の昔とも一緒である)。つい先程まで無縁だったと信じさせてくれるものは周りにほとんどない。記憶と、文字などのデータ以外には・・・。そこで、未だ無縁と思えるものを取り出し、それと関係を取り結び終えている未来というものを想定してみる。しかし、それは何か、動きのないつまらない遊びであるかの如く、こちらに何ものをも響かせてこない。

 結局、時間というものの無さあるいは、今というものの永遠性、両方向性ということなのだろう。

「懐かしい。前にもどこかで会ったような気がする・・・。」

初見でそう思うのは、今というものが、即ち過去(それも、どこまでも遠いものまで含む)でもあるからなのだろうか。無縁のものに今出合えば、それは遥か先で出合ったことと全く同じなのである。