<283>「何故だか暖かさを増していく」

 夕景に踊る一両の流れ。伏せた目を細い影が捉えては損ね、捉えては損ねする。ほんのり暖かくなった内部を船が浮遊する。そこを満たすものは、ずらりと並んだ黒い群れ。警戒心を解かれた無数の粒は行き場を求めず、懐かしい光の中で空腹を装った。空中睡眠の頻度はいや増し、匂い立つ入口の隅でこうして待っているのだ。

 当然の如く濃さはなだらかに行き渡り、揺すぶる、足の上でもったいぶって染色を施し直す。もう一度、またもう一度。無数の細い筋に雨の幻影が重なって、何故だか暖かさを増していく。ためらうことを知ろうともしない眩しさとなって・・・。

<282>「デラウェア」

 デラウェア。ひとつひとつ皮から実を押し出しては食べ押し出しては食べ、余った皮は皿の端にまとめて置いておく。実を全部食べ終えた後、余った皮を手の平の上でひとつの塊にすると、口の中へ放り込んで、ぎゅうっと絞る。果汁を絞り切ってカラカラになった皮の塊を口から出して、ご馳走様。

 そういった手順で、以前まで食していたことを思い出した。以前、それも、随分前だ(巨峰は種があるのであまり好きではない)。ふと、皮の塊を口の中でぎゅうっと絞らなくなっていたことに気づく。いつからだろうか。別に、気づいてから改めて実行に移しても遅いことはなかったのだが、恥ずかしさの為ではなかったと思うが、やらなかった。やったら美味しいのにな、とは思ったのだ。

 

<281>「青い好色の男」

 その男は空中を噛むと、大胆な太陽を引き寄せた。閉じた目に空間全体として刺さる球体は、出口を探してやや勢いを強めると、覚えず、道案内の白い一筋を裏切って、開かれた目の前で急速に縮まった。横暴を恥じるかのように、微かに呼吸を深くする。それとこれとは何の関係もないと言って、男の懐からはやけに青い好色な男。踏ん張りの利かない身体を猛スピードで降下させ、淡さばかりを作ることに専念した。尤も、それは双方の望んだことではないだろう。立っていられない程の疲労感を自ずから求めにくる様を、道案内がてらいつまでも眺めていた。

 

<280>「つく風」

 青やかに、朝まだき風の群れが、不都合に目覚めをそそのかすと、しばらくして戻っていく。長い確認が、穏やかさを植えつけつつ奪い去ることを予感する。ここは私の眠るところではない。

 丁寧に暗さを抜かれた空が、一体となって誘い出す。遠慮がちにびゅうびゅうと、風の案内はあくまでも低いところを走った。網戸を引いた手は、まるで戻ることを検討していないかのような軽さで。

 おおという挨拶の響きが、がらんがらんと木々の固まりを揺らす。眠り際、見られる景色の落ち着いた、暗さを持った露骨な動きは・・・。

<279>「難儀する鉛筆」

 不合理な名前を、ひたすらに呼んで、ろくに交わしもしない会話を踊らせた。午後のけだるさ、よく見えるものは皆素早く動き、その色を証拠に捕まるのだ。担当でないという戸惑いを、表に出すか出さぬかの違いだけで、私もあなたと同じような余所者だ。恥を知るという難しい宿題に、難儀する鉛筆だけがその丈を減らす。一緒に見るのだ、始まらないはずの試合を、よく日に焼けたグラウンドを。ひとりで座っていることがどうにも一番自然に思われてならなかった。きっとこの角度をもう一度、夢で確かめるのだろう。よく冷えた夢を満たす一筋のコーラスが、オーライオーライという終了の掛け声を聴いている。

<278>「夢の中」

 今まで会ったこともない人、見たこともないものに出合っても、

「これは、以前どこかで見た光景をいろいろと組み合わせて出来たものだ」

とは思わないだろう。しかし、夢で同じような場面に出くわせば、

「ああ、これは私が以前見たもののあれこれを組み合わせて作られた結果としての新しいものなのだろう。よって、全く知らなかったものという訳ではないのだろう」

と思う。何故か。実際の景色は脳みその外に存在しており、夢の景色は脳みその中に存在しているからだろうか。

 脳みその中だけでは、新たなものに出合うことはないのだろうか。夢を見るたびに、ふとそんな疑問が頭をよぎる。既知のものの組み合わせでない場所を見ているような気がしてならなくなることがある。あんな人、あんな要素を持った人に会ったことがあるだろうか? 夢は蓄えられたものしか映さない、完全に中のものなのだろうか。外でもあり得たりはしないのだろうか・・・。

<277>「行動に出るということ」

 例えば、家族のある人と関係を持つことの何が悪いのかは分からないけれども、その行いによって、その家族全体を不幸にする、大方の人はそのことにひどくショックを受けるということを知っているから、わざわざあえてそういう行為には及ばないという人と、家族のある人と関係を持つなんて本当に悪いことだと考えているから、わざわざそういった行為には及ばない人がいたとして、行動が全てだという視点に立つと、二人は同じ動きを繰り広げているということになるのだろうか。

 こういうことを思うとき、行動が全てだという考えは非常に雑な、あるいは乱暴なものだという印象を抱いてしまう。あるいは仮に、行動が全てだという考えが乱暴でも何でもないと考えてみたとして、それでも内心は内心で、ひとつの動きなのではないかという疑問が頭をもたげてくる。結果的に取ったポジションが同じだったからといって(家族のある人とは関係を持たないなどなど)、同じ行動がそこで起きていたとは必ずしも言い切れないのではないか。何を考えているかというのは、行動の外に位置するのではなく、行動と一体なのではないか。身体の動かし方が同じだったからといって、見る人が必ずそこに同じ行動を見るとは限らない。そこに胡散臭い動きをみるかもしれないし、衒いのなさを見るかもしれない。見え方が様々であればそれはもう同じ行動とは言えないのではないか。

 行動と考え、これらを別々にするのには用心がいる。考えてばかりいないで行動しなさい、しかし考えも行動ではないか、両者はくっついているのではないか。じっと立ち止まって考えなさい、しかし、動き回ることは必ずしも考えることと矛盾しないのではないか。