<256>「もう夜だ」

 風景であるための絵、材料の持ち合わせがない。存在しない壁のようにして浮遊する無色透明の塊は、執拗に筆に取り縋る。予定外の船舶は、風にやおら興奮をもたらし、なだめるような呼吸を為す、その灰白色。帰っていく素振りを見せつつ、波は行列を形成し、倦怠の暮色、乗組員が頻りに何かを言っている。収めどころを失って回転し、発言権の苦みを如何にせん。先頃まで横に拡がり溶け出していたものは、すばやくその影を回収した。もう夜だ。薄暗がりの中でかつての師は、

「あれがあなたの山だ」

と言った。顔面に走った皺は一直線に地平線を目指す。もう夜だ・・・。

<255>「森を食む囚人」

 間違えられた囚人は、獄舎の中で森を食んだ。長たらしい沈黙の後で、靴音に似た音すら聴き取らない項垂れた拒否を、落胆の跡と見るのは当たらない。

 勘違いの窓辺、看守は緩やかに己が捕らえられていくのを感ずる。そろそろと俯いた顔を覗き込み、まるで視線が合わないことを受け容れない、否、受け容れたくない。誰とも取り合わない、もはや拒否すらない顔を眺めることは勿論不可能なのだった。両の肩を粘っこく捕らえ、離そうという考えの浮かばないほど優しく動くその節くれだった手は、解決のない合図のようにして全身を震わせた。

<254>「ある人の話」

 こういう人があったという。その人は一家の主。あるとき妻と娘共に誘拐に遭い、例に漏れず電話での脅迫を受けた。悪戯だと思ったか、どうしようもないことだとひとりで決め込んだか、理由は定かでないが、その人は犯人の要求の一切に応じず、警察にも連絡しなかった。妻と娘は、その人に無視され、どうにもならなくなった犯人によって殺された。警察が現場に突入したとき、犯人の命も既になかったという。話によれば、その人は事情を伺われにくるまで、普段とほとんど変わらない生活を送っていたという・・・。

 犯人が死んだことにより(尤も、死ななくても起こり得たことであろうとは思うが)、世間の非難はその人に集中した。どうして何の手も打たなかったのか、中には犯人より悪いとまで言う人もいた。御多分に漏れず、当然私の周囲でも、そういう非難で持ち切りだった。同意を求める声に曖昧な笑みを返しながら、不思議な人だと、思いつつ敬服の情を覚えたのは妙だった。いや、妙であったか・・・?

 この人は泣いていなかったのではないと、何故か思った。愛していなかったのでもない。ただ、大切に思っていることと、誘拐犯が凶行に及ぶこととには何の関係もないと感じた、どうにもならない、いやあるいはどうにかなるかもしれないと、様々の手を尽くすのは、半分いやそれ以上、世間の目を意識してのことであると感じた、そしてこの人はやはりこの状況でも、自分の生活を送ることに努めた、そういうことではないのかと思った。何かしらおかしなところを見つけることの出来ない自分に戸惑った。この人がどこかおかしく映るとして、それは底の底まで見極めが徹底されたことによる自由さの為なのではないか・・・。

<253>「私はどうしたって日常だ」

 繰り返しの道順が先に見えてしまうことに何か苦しさがある。実はその繰り返しの作業内容自体は大した苦しみも齎さないのだが、迎えたくないという訳でもないのだが。頭の中で先取りされることに苦しさはある。またちょっとしたら同じ場所に戻るのに、わざわざそこから引き揚げていくことの面倒さ。だが、留まっていれば快適という訳にもいかない。どちらにも進みたくないし留まっていたくもない、これが倦怠だ。留まっていたいというのは倦怠感ではないのだろうか? いや、そうとも言えないだろう。しかし、留まっていたいという気持ちがある上で留まっているだけに、まだマシな倦怠だと言える。

 十数時間もしたらまた戻らねばならない、それは確かな話だが、そこには何か想像の過多がある。「また」行くのには行くのだ、しかし新たに行くのだ。そこは未知であるはずだが、あまりに同じ道をなぞり続けていれば、大体の見当はつく。倦怠的想像の優位はそうして不本意にも立ち上がる。私は日常であり、日常は私でなければならないというのが、一番の倦怠であり、訳の分からない憤りの源であるのかもしれない。

<252>「舌、埃」

 無表情がゆっくりと迫って来る。ぎこちなく笑った分だけ、何だよと言った分だけ追い込まれていくのを感じた。漸次変化、拡がったものは壁であり、鼻の腔は出入り口ではなかった。窒息した壁は休まるところを知らず、酩酊のタチ。千鳥足の渡る唇は、渇き、潤い、どばっと溶け出した舌の足跡、次々に並び、二枚舌、三枚舌・・・。薄赤く敷かれたマットに腰を下ろし、埃の粒が宙を舞い、失いかけた味覚のお供をするのは、そこのお前。

<251>「意味から守る」

 無駄なことに意味があるとか、価値のないものにこそ価値がある、という言説は、入り口としてはいいというか、伝わらない人に説明するために、仕方なく取らざるを得ないスタンスであることは確かであるから、そういうようなことを言っている人たちを否定的に言う訳にはいかないのだが(私もつい言ってしまうことがある)、それはそもそもケチな言い方である。無駄なものに意味があると言ったり、価値のないものにこそ価値があると言ったり、それは意味の論理であり、価値の論理なのだ。あるいは、そこから逃れようとして結局吸収されてしまっている論理だとも言える。

 無駄なことにまで何故意味を見なければならないのか。価値のないものに何故価値を見出さなければいけないのか。無駄なものはやはりどこまで行っても無駄であり、価値のないものはやはり価値のないままである。しかし好きだから、何か気になるから残るし、やる人がいるという、ただそれだけのことでいいのではないかという気がする。無駄なものや価値のないものを意味から守っていたい。

<250>「その廻り」

 よく殺到、盗賊の恐れ群れを成し、なしのつぶての好回廊。労働力不足の財産は明日に来し、軋るはずみの枝のその若葉。樺色の空に好しよく棟を見上げ、挙げ句の果ての横っ飛び二月。ツキのない人間に甚だしい大量の模造品用がなく、無くしても分からぬその有難み吹きさらし。羅生の縁も得ぬ袖の振り越し、来し方よろし経済道彼方に渡り約一回分の石を積みややばらしまたとなし。