<249>「全身が砕かれることを意識した鳥」

 全身が砕かれることを意識した鳥、そんなものは存在しないのか?予定以上の速さに乗って、何ともないことを疑いたい。不可思議と緊張、それが常日頃の面持ちであり、そこに最悪の想像の影はない。盛り上がりつつ彎曲する両翼の、視界は木の尖端を触れ、一枝掴みそこねつつ、暗がりの鳴き声。傾きかけた首にとおせんぼの閃き、加速し、現実感のない軽さはそこにいくらかの風すら残さないよう。切り貼りした風景を続けざまに横切り、安堵の息すら漏らさぬ。バラバラになった自身を見つめ、それが何であるかすらもまた・・・。飛躍に必要なのは、恐怖心がないことではなかったのだ。

<248>「招ばれていない人」

 門を叩く。どうぞ、客であることを言わなければ、私は客ではないのだから。これから先も、これまでも主人が誰であるかということは言わなかった。招ばれてなくても来ることに何らの抵抗もない。むしろ驚きの表情の中には嬉しさが見え隠れして、何も出さないうちに出涸らしの茶、ひとなめ、ひとなめ。帰宅の隙を窺わない一匹の鯛は、ひとはね、ふたはね、軽々と塀を超えて、調理夫がそらやった、雇われがそらそらやった、うわあああと危機のない混乱が拡がって、どん。門を辞した私の顔を見よ、何にも可笑しくないという顔で微笑んでいるではないか。ナイス。毛頭今回もひととび、思った通りにふたとび、みたび成功する宿泊の儀。

<247>「見ていないので」

 どこを見ているか分からない視線のことを話そう。そんなに覗き込むものではない。こちらを見ているものがある、が、同時に、こちらを見ていないものがあると、何故だか見られているという感じがしない。むろん、それは見ている方でもそうだ。対象をしかと捉え、それでいて、これは私が捉えたものではないという気持ちがする。眺めることの拒否、遠慮という訳ではないのだろうが、どうも何かを探るように、また、探られることをよしとしないように、ぐいと内側へ外側へ動く。

 間の抜けた印象を抱かせる。それは間を外し、しっかりと組み合うことから逸れていく。どうしてそうハッキリと見るのか。集中して見るのは疲れる。疲れるとまたぼんやりと浮遊していく。ハッキリと見つめ切る、最後まで見つめ切ることが習慣になっていると、それがとてもストレスであることに気がつきにくくなるのかもしれない。もう、今日は何かを見据えなくていい。焦点がぼやけて安心する瞬間が私は好きだ。

<246>「ただ悪であることを書くことは」

 ただ悪であることは難しい。自分が悪だということを語り、恥じること、そうです俺は悪いんですと開き直ること、またそれを外から客観的に眺めて、今私がやっているように淡々と、恥じもせず開き直りもせず、悪について書いていくこと、こういうことの全ては慰めとして機能するからだ。真摯に反省をしていても、また反省から離れて、ありのままをぐっと見据えていても、それに、触れる(言及する)という行為が挟まった瞬間から、それら反省は自覚的無自覚的にかかわらず、慰めとして機能してしまう、というジレンマから、悪を(それも自分の悪を)語ることが出来ないという事態が生じる。そう、自分の悪というものは自分で語れないのだ。語ると、それが慰めになってしまうから。では、何故それを分かっていながらこういうことを書いてしまうのかといえば、冒頭で言ったように、ただの悪であることがそれはそれは難しいことだからだ。悔やんでみせたり、開き直ってみせたり、淡々と書いてみせたりしないではいられないのだ。

 自分が悪であるという自覚を前にして、一番誠実な態度たりえるのは、一言も発せず黙っていることだ。自分の悪を他人に責められているときはもちろん、誰にも責められていないとき(これが一番難しい)にも、ただ自覚だけして黙っていること。ただの悪であるのには自己訓練が必要だ。そしてもうこういうことは書かないことも・・・。

<245>「想像していた現実と現実」

 そうなれば良いと思っていることと、実際にそうなることとの間には随分と大きな溝がある。心の底では、本当はそんなこと願ってやしなかった、というのとはまた違う。本当にそうなれば良いと思っていたことが実現すると、何とも変な感じがするのだ。そうして驚き、自然他人事のような態度になると、何だその態度は、となる。そりゃ当然だ。他人事ではないのだから。しかし当人は他人事のように驚いて、あんまり指摘されると、何で「自分が」こんなに指摘されているのかが分からなくなって苛々としてくる。おい、オカシイぞとまた言われてしまう・・・。そう、オカシイだろう。しかし、そこには何か、自然な、無理のないものがあるように感じられたのだが、これは何だ? それは、他人事だという面をしているのが正しいとか、指摘されて怒っているのが正しいとかいう意味ではない。そうではなくて、こういうように驚くよりほかにしょうがなかったかのように思われてならないのだ。当然、責められて然るべきだし、それは甘んじて受けいれなければならない。ただ、そのリアクションの無理のなさというのが何か、ひどく不可思議で・・・。

<244>「もうひとつの太陽を放る」

 どうにもならない太陽が、黙って捨てられた。火を強制しろ、道を照らせ。照らされたその表情の上を、静かに歩く。ぼくはその遠い遠いところから来るのを控えていた。遠慮することではないさ。朝が快適だと囁く、その声は高いところを渡って、いつまでも落ちない。自分がむさぼったものはいつか返さなくてはならない。それでこそ腹は裂けるのだ。よう、そこまで綺麗でない? それがどうした? 招こうとしてもその通りには訪れない、涼やかな長い動きを、待つともなく待っていればいいのだ(待っている間には、待っていないときが含まれる?)。

 会わないはずのものが合わさって、やさしくへりを撫ぜる。ぷすっ、ぷすっと弾み、何を話し交わしたらいいか分からない。当然だ。だらしなく垂れた腕から、もうひとつの太陽を放る。もう少しだ、もう少し待っていてほしい・・・。

<243>「涙が出るほど嬉しい」

 ノックアウトされたピッチャーが、ベンチに帰ってグラブを投げつける。何だよ、お前が悪いんじゃないか、怒りたいのはこっちだよ、そんなことはピッチャーが一番よく分かっている。でも、どうにもならない。何でお前が怒っているんだよと言われても、その湧き上がってくる怒りをどうしようもない。自分が圧倒的に悪くて、それでもって腹が立ってしょうがないときの情けなさ、みっともなさ。

 子供のような瞬発力、つまりマズいと思ったらすぐに謝れる瞬発力があればいい。明日には仲直りできる瞬発力が。もう子供じゃないからという言い訳が、本当は出来ることを出来なくしているのだとしたら勿体ない。本当にすみませんでした。自分が悪いのに、自分が一番先に怒ってしまって、そう言えたとき、よく泣いてしまうのだが、情けなくて泣いているのだとばかり思っていた。そうじゃない、激しく感動して泣いていたのだ(謝っている最中に不謹慎ではあるが)。自分にもまだまだ柔らかさがあった。柔らかさが崩れてはいなかったという・・・。