<175>「行動が全てという考え」

 行動が全てという考え、その実践には良い面と悪い面がある。尤も、~が全てという極端な考えに身を置く以上、良いものと悪いものが力強く浮き上がってくるのは仕方ないのだが。良い面は、行動が重視される以上、何はともあれ物事は前に進むということ。口だけで何もしない態度は、あまり顧みられなくなるということ。悪い面は、全部が表されるよう骨を折っていなければならなくなるということ。その結果として全体的にうるさくなるということ(音声的な意味だけでなく)。何もしないで動かないでいることが軽んじられるようになるということ(これは良い面にもなれば悪い面にもなるのだ)。

 思いの強さであったり、その深さであったりは、表に出ているときだけ本当になる訳ではない。しかし、行動が全てという考えを取ると、内側に留まっているものは全て、思いではないということになる(行動になっていないのだから)。そうすると、常に外へと向かって、

「思いがありますよ」

ということを表現していなければならない。そうしないと、思いが無い人間として扱われるからだ。また、強さというものが曖昧で分かりにくいものである以上、表現を大きくするか、しつこくするかでそれを示そうとし出すので(それが傍目には一番分かりやすい)、音声的にもそれ以外の面でも、全体がやかましくなる。感謝、感謝の連呼が、嬉しいという気持ちの発露ではなく、何かの予防線、威圧のように見える。

 人には想像力がある。これと無縁で生きている人はおそらくいまい。行動が全てという考えは、想像力を著しく軽く見ている。表されていなければ、その内側にも存しないものとし、もしや表に出てきていないだけで内側にはちゃんとあるのではないかと想像してみもしない、これは傲慢ではないか。

<174>「付き合い」

 大方の人には分かんないだろうねと、敢えて分からないような、あるいは分かりにくい提示の仕方をして得意になっているのもガッカリだが、自分が分かるか分からないか、理解が容易か否かを基準にして、分からなければ即、

「こんな分かりにくい、難しいものは大体ダメなんだよな」

と判断するのも、同じように残念だと思わざるを得ない。人によって表現されたものに、理解可能か否かという側面だけで近づいていくのは何とも貧しい。それは表現されたものだけでなくともそうだが。例えば、利があるから付き合っているだとか、相手の型というものはこういうものだと把握していて、自身とその相手の型とが上手く嵌まるから関係が良好なのだ、などと分かりやすい説明を容れてみても、一向に現実の関係の全容は明らかにならない。どうして合うのか、何で付き合っているのか、利があるのかないのか、そもそもそんな捉え方で人との付き合いを進めているか、そんなことを本当に強く意識しているか、分析みたいなことを外からされて、話を聞いて、なるほどそれはそうなのかもしれないなあ、などと言いながら、その実全くピンと来ていないのではないか。つまり、分かるから親しむという訳でもない。分からないで交流、交通していることの方が圧倒的に多いと思うのだ。

 それが懐かしいのか新しいのか、ヒリヒリするのか温かいのか、おそらくそういうものが複雑に混じり合って、何らかの親しむ理由を形成してはいるのだろうが、まず掴めない。しかし、ハッキリ何とは分からなくても、

「よし、この人としばらくぶつかってみよう」

とは何処かで感じる。感じるのだからそれでいいではないか。理解できるから良いとか悪いとか、そんなことはどうでもいいことだ。

<173>「運命ということ」

 運命というものは何かと考えるとき、それは言葉の意味を追えば当然なのだが、逃れようなどと思っても逃れられないもの、意志などを超えたところで定められているもの、となるから、例えば私にとってそれは、

「日常性の枠に取り込まれる」

ことだったりする。突飛な生活を送ろうと、完全な自由を得たと喜ぼうと、それが続けば即日常性の枠に取り込まれる。あっちゃこっちゃ行く、縛られていないということ自体が、一定の単調なリズムになる。運命というものは大体これに尽きると考えている(食う寝るなどもあるが)。凡そ感情に訴えるものではないが、単純で重い。

 反対に、脱落、脱出しようと思えば出来るものは、それがどんなにか外見上、運命のような姿をしていても、結局は運命でないと思っている。であるから、これをやるために生まれてきた、これをやるのは運命だったんだ、というのは少し捉え方がズレているように感じる。人間にとって「意味」とか「目的」は、全く運命的なものではない。そう見たいという意思があるだけだ。それらを自分から外したところで、平然と存在することが出来る。それを外して存在することは出来ない、という条件でなければ、それは運命とは言えない。そこから外れたものを存在出来ないようにしようとし、果たしてその通りの結果を得、

「ほら、意味とか目的から外れるやつは存在出来ない運命なんだよ」

と述べるのは、運命と意志とを巧みにすり替えているにすぎない。

<172>「ずれて、」

 まるで同じことを言っている。内容に少しくの差はあれど、また同じことを考えているし、また同じ通路を進んでいる・・・と思うのだが、ほんの少し前のことでさえ、もう何と言っているのか分からない。こんなにも変わってしまうのだろうか。同じことを言おうと思ってもまるで言えない、とすれば毎日同じことを考えて書いていればいいのではないか、極端だが。繰り返すとはそういうことなのかもしれない。つまり繰り返そうと思っても同じようには出来ないことの確認と、ズレと、それぞれで。純粋に身体的なものだから、同じ状態という、ブレない何か、みたいなものが神話なのだ。

<171>「混濁のヒ」

 意識に上ることを信頼しすぎたり、意識に上らないことを信頼しすぎたりすることには無理がある。頭を強く働かせさえすれば真理に至れるだとか、無意識に抱いてしまっている気持ちの方が本当だ、という考えはどちらも極端なのだ。上ってくるものと上ってこないものにはそのままの違いがあるだけであり、どちらかが本当なのではなくて、その混ざり合いだ。それでは混濁したままではないか。理性とか知性というものは、もっと強く、スッキリしているものだ。いや、知性なんかどうでもいい、無意識を根掘り葉掘り調べてやるからちょっとそこに座って待ってろ。訳が分からなくなって混乱している頭など弱い頭だ・・・。どうして混濁したままを混濁したままのものと見留めないか。意識に上らない気持ちが本当の気持ちなら、どうして簡単にそれを捨てられるのだろう? 素直じゃないから? はて素直とは・・・。食う寝るという基本的なこと以外では当たり前に欲望と自身との不一致が起きる、ということは、つまり混濁しているということ、そのままシンプルに分裂しているということではないか。

<170>「親指が痛いぐらいのことで」

 親指がいたい、それも、ちょっとしびれを感じているぐらいの程度で、どこまでも押して行けたら面白いだろうな、いや、そういう場面てのは意外とよくあるような気もする。相手が深刻な家庭問題、またひとりは大病、またひとりは大いなる憂鬱を抱えているところへ、プレゼンテーションと熱量で、どんどんと入って行く、圧倒していく、親指が痛いぐらいのことで。あー痛い痛い痛い。

 実際圧倒されるだろう。あんまり勢いが盛んだと、

「俺の状態の方が深刻なんだけどな・・・」

なんて考えは、スーッと後ろの方へ退いていく。あんまり大袈裟なんで、笑ってしまうかもしれない。周りの人の方がよっぽど深刻な状況にあるということに気がつかないのはただ鈍いだけだが、気づいている、よく承知している上で、ぐいっと踏み込んで加速出来る人は良い。そういう人は知らず知らず、周りの人を助けるかもしれない。

<169>「大袈裟なこと」

 大袈裟になることをどうも挫かれるように出来ている。辛いことや悲しいことがだんだんに自分の中で大袈裟になろうとしているのを見ると、笑ってしまう。苦痛が随分と簡単に快楽へと接続されるのを覚えて、何となく胡散臭さを感じるようになり、そして幸不幸というものがよく分からなくなった。簡単に転倒するではないか。一生懸命怒っていたことを思い出し、どうしてあんなに一生懸命になっていたのか、自分でも不可解でヒクヒクする。大袈裟が似合わないのは私だけの問題か全体の問題か(そんなことはどちらでもよい)。規模が大きいというだけでは必ずしも大袈裟にならない。規模が大きくたって自然なものは自然だ。大袈裟なことがおかしく感じるというのはつまり、大袈裟なことというのは存在しないのでは。しても不自然。