<168>「原初の重さ」

 何も分からない存在はどのようにして歩むのか。それはお前の歩み方をよく見てみれば分かるだろう、分かるか? いや・・・。倦怠感は純粋に身体の問題だという気がするのだ。同じ感覚に貫かれていながら、全く元気がなかったりだるかったり、一方でピンピンしていて元気が溢れていたりするのだから(どちらかだけを嘘としたり、どちらかだけを本当とすることには無理がある)。しかし、頭も身体なのだ・・・。

 落ち込んだり、飛び上がったりする理由を知ることはない。考え方の変化によって倦怠を抱えるようになったという思い込みの無理を、幼少時の虚ろな瞬間が伝えている。絶対的な重さを(他のものとの比較ではない重さ)確かめたときから、これを背負い上げる倦怠を感じていたはずで、それはどこまでも前まで遡れる気がする。それこそ、激しく泣き叫ぶ前まで・・・。

<167>「ひとつの世界で人を掴む」

 受容する身体がひとつひとつ違うのだから、

「お前はあいつのことを何にも知らない」

までならまだしも、

「だから、あいつについてのお前の認識は間違っている」

までいくと、それは違うのじゃないかなと思う。或る人物のことが分かる、そしてその分かり方は大方の人にとって共通のものになるはずだし、その共通の分かり方からズレている人は当然、或る人物についての認識が間違っていることになるはずだ、という考え方は、人々が皆、同じ一個の身体に収まっていなければ成り立たないものだと思う。違う場所に立っている、違う目で見ている、また、見るということは働きであることを考え合わせれば、各々の分かり方というものがそれぞれにあって然るべきではないか。そして各々が独自に何かを掴んでいる以上、間違うというのはあり得ないのではないか(つまり、或る人物について共通の、正解の認識というのは存在しないのではないかということだ)。

 例えば、自身の情報の一部を隠すことによって相手を騙しおおせたことにより、相手は、自分について間違っていたという判断を下そうとする。しかし、自らが言い出しさえしなければ相手が知るべくもないことで相手を欺くことなど易いことで、また、その隠している部分が知られなければ、自分というものを本当に知られたことにはならないと考えるのは、ひとつの思い込みでしかない。何故なら、人間は統一されて在りながら確かに分裂していて、時には完全に矛盾するように見えるものをも同時に含んで存在するもので、また各々の目の働きによって、たったひとりの人物であっても、凡そその眺める目の分だけは違って見えてくることが可能なほどには多様な存在であるからだ。

 つまり、自分が或る部分を隠しておけば、自分の本当の部分は露呈していないと考えるのは、他者の目の働きを過小評価しすぎている、自分を僅かの面からなる存在だと勘違いしている。自分も全く知らない自分の面、隠す隠さないなどの及ばない領域が、他者の目に曝されていて、存分に眺め尽くされてしまっていると考えるのが妥当だろう。

 ひとつの世界を構成する他者は、その眺めるという働きによって、一瞬にして何かを全面的に掴む。あれこれの情報が呈示されていたりされていなかったりということが一体何であろう。それはひとつの世界たる他者の目にはどうでもいいことに映る、いや、そもそも映らない。見たときに何かしら揺らぎ難いものを掴んだならば、それがその他者にとっての全てではないだろうか。むろん、それは全員に共通のものを掴んだということではない。他の人はまた他の人の領域内で、何か違ったものを全面的に掴むはずだ。

<166>「参加する姿勢を見ている」

 会話は雰囲気の確認、関係の深化が目的であるから、相手の話の内容をしっかりと聴く必要はない。むしろ、話の内容に拘りすぎると、会話は発展しない。大体が会話の出発点、きっかけとして出されるものに確実に返そうとすると、

「ああ、そうなんですか」

で終わってしまうようなことになる。それよりほか言いようがないからだ。この間こういうことがあったとか、ちょっとここがこうなんだよねえ・・・などという発話の「内容」に拘っていてはいけない。大事なことは、自分も参加することである。つまり、こういうことがあったという話題が提供されたら、その話の内容には適当に相槌を打って流しておいて、

「それならば、私もこういうことがありましたよ」

と、何かを提供し返していかなければならない。あ、今勝手に喋り始めちゃって、相手の言っている話を無視しちゃったかな、などと考えなくていい。それを考えると容易に参加できなくなる。

 この、参加する、自発的に何かを提供し合うことだけが、会話において唯一大切なことだと言い切ってもいいぐらいで、会話の当事者たちは、相手に、自発的な参加、提供の意思があるか否かということを主に気にしているように見える。そうすると、全く噛み合っていないのに、延々とお喋りが続けられる人たちがいる理由もよく分かる。究極のところ、内容などどうでもよくて、相手の参加姿勢が確認出来ればそれでいいからだ。

 であるから、こちらとしてはしっかりと内容を把握し、相槌を打ち、聴き洩らさまいと努めているつもりでも、それだけにとどまり、

「私もこういうことがありましたよ」

という、内容無視の遮断的介入にまで移行していかなければ、相手は、私に対して、会話をしようとしていない人だという印象を持つことになる。まあ事実、そのような発話の形が得意ではなく、かつ、思考の交流に比してあまり好いていないようなところがあるから、その印象は間違いとは言えないのだが・・・。

<165>「効果的対話の稀少さ」

 話し合うことが必要だ、そうしないと何も前に進まないという話と、議論なんかしていても仕方ない、各々が勝手に思考を進めていく方が結果的に良いという話とは、一緒ではないまでも矛盾はしないと思っている。つまり、こちらの為にも相手の為にもなるような議論の場を作っていくのには、相当に繊細な努力が必要であるということ。どちらかが壊そうとしている場合はもちろんのこと、お互いにしっかりとした準備、注意を持ってして臨んでも、大抵は揚げ足取り、取るに足らない部分を取り上げての要らぬ追及、私的な感情を刺激されての激昂、ただの褒め合い、言葉遊びの類に堕することになる。お互いがそんなことをするつもりなどなくとも、こうなってしまうことが実に多い。

 おそらく、お互いが刺激を受けて、思ってもみなかった領域までジャンプできるような素晴らしい対話も、実際にあることはあるのだろう。しかし、そこまで到達できる可能性があまりにも低く、現実のことでありながら、さながら空想の産物のような姿をしているので、そんなに可能性の低いものを追うならば、極端ではあるが、他人との議論などは一切断って、ひとりで沈思黙考、自問自答していた方が遥かに良いという結論になるのだろう。つまり、効果的な対話が、沈思黙考より遥かに良い効果をもたらすことを知らない訳ではないのだ。しかし、自分がどうこうという以前に、コントロールの効かない他者が入ってくることもあるし、大概が実りの無い、不毛な罵り合いつつき合い褒め合いになることを思えば、ひとりで考えていた方がまだマシだというところに行き着いているだけのことだろうと思うのだ。

<164>「理不尽に襲われるもの」

 怒りというのはとことん理不尽なのかもしれない。理が混じることもあるにはあるが・・・。ほとんど理のないところに理を見よう解釈しようとするところにしんどさはある。自身が向けるもの、向けられるものの両方が、理不尽であることを拒否する、あるいは、きっと何か理由があるはずだと考えると、事態はどんどんと悪化する。

 各々が勝手に、どうしようもない理由で(理不尽としか呼べないもので)怒っていて、各々がそれをそのまま承知している方がいい(無理に理詰めでくっつけようとしてはいけない)。嫌いという感情と同じで、本当に些細なこと、理由の見つからないようなことで簡単に湧き上がってしまうものである以上、あまり重大な事態だと考えない方がいい。

<163>「イメージをきく」

 私が聞く私の声と、相手が聞く私の声とは違う。その事実を録音機器などで確かめる。

「ああ、私の声は、¨本当は¨こういう声なんだ」

と。しかし、私が現実に暮らしているときに、身体の内側にあって直接聞いている私の声は偽物ではないだろう。つまり内側にいるときと、外側から聞くときとで、音声体験が違うだけである。厳密に言えば、

「いや、全然変じゃないよ。あなたの声はこんな感じだよ」

というときの、あなたの声(つまりは私の声)も、聞く人によって(全くの別物ではないかもしれないが)違っている。それは耳が違うのだから(一個の耳を皆で物理的に共有している訳ではないのだから)当然だ。

 また、人が、或る人に対して持っているイメージは各々で異なるが(似たイメージを持つ場合でも、質的な差がある)、そのイメージの差によっても、音声体験には微妙な違いが出来てくる。つまり、人はイメージを聞いている。それは、肉声に先行したり、後から加わったりしながら、その人だけにしか聞こえない、或る人の音声を作っていく。イメージを聞いているとはどういうことか。読書体験による、ある瞬間を思い出してほしい。肉声を一度たりとも聞いたことがないが、好きでよく読んでいる作家がいたとする。ある日、ひょんなことからその作家の肉声を聞くような機会が訪れる。すると、ほぼ必ず、

「あれ? イメージと違う」

という気持ちが起こってくる、この、イメージである。普段、その作家の文を読んでいると、幻聴のように実際に音声が聞こえるような感じになる訳でもなく、また自身の頭の中で独自にその作家の音声を作っている訳でもなく、ただ黙って静かに先へ先へと進んでいくだけで、イメージが自ずと立ち現われ、音声ではない声といったようなものがこちらへと運ばれてくるようなことが起きる。このとき、肉声の混じらないイメージだけを聞いているのだ。イメージを聞くとはそういうことである。しかし、実際に発せられる声というのは肉声とイメージの混じり合いで成り立っているから、初めて肉声に触れたとき、それがイメージだけを聞いていたときと全然別のもののような感じがするのは当たり前のことなのだ。

 そうすると、抱くイメージの変化によって、私のところへ届いてくる或る人の声というのは微妙に違ったものになっていくだろうし、おそらく、或る人が私に対して抱くイメージの変化によっても、私に届く或る人の声というのは多少なりとも違ったものになってくるのだろう。

<162>「生活する身体」

 例えば生活の細部、そこで何が使われているのか、どのようなルールの下にあるのかなどに驚くことはあるだろうが、生活自体に驚くことはあまりない。これは、他人の生活の想像困難性にも関係しているのではないか。つまり密接過ぎて見えようがない、しかし密接であるが故に何の違和感もない。全く普段とは違う生活環境に放り込まれても、すぐに対応できるのは不思議だ。今までずっとそこで暮らしてきたように感じられ、また、去ると一変、そんなところで生活などまるでしていなかったかのように思える。生活とは身体だ。つまりはそういうことだろう。何事かを呼吸していればいいのであって、見えなくてもちっとも構わない。久しぶりの対面で、

「どう、最近何やってんの?」

と訊けるのは、それが気軽だからだろう。それが深刻な一事、つまり相手が何をやっているのかが見えてこないのが一大事なのならば、決してそんな具合には訊けない。だからということもあるまいが、ミステリアスな生活、人物と銘打たれても、あまり興味をそそられない。全て他人の生活は、見えてこないのが当然だからであるし、見えないことが何かとても不思議なことだとも思わないからだ。しかし、興味がないということでもない(というより興味ではない)。そこに確かなひとりの身体運動があることを感じ、実際に訪れればそれをそのまま確認出来るだろうことを想像する。