<175>「行動が全てという考え」

 行動が全てという考え、その実践には良い面と悪い面がある。尤も、~が全てという極端な考えに身を置く以上、良いものと悪いものが力強く浮き上がってくるのは仕方ないのだが。良い面は、行動が重視される以上、何はともあれ物事は前に進むということ。口だけで何もしない態度は、あまり顧みられなくなるということ。悪い面は、全部が表されるよう骨を折っていなければならなくなるということ。その結果として全体的にうるさくなるということ(音声的な意味だけでなく)。何もしないで動かないでいることが軽んじられるようになるということ(これは良い面にもなれば悪い面にもなるのだ)。

 思いの強さであったり、その深さであったりは、表に出ているときだけ本当になる訳ではない。しかし、行動が全てという考えを取ると、内側に留まっているものは全て、思いではないということになる(行動になっていないのだから)。そうすると、常に外へと向かって、

「思いがありますよ」

ということを表現していなければならない。そうしないと、思いが無い人間として扱われるからだ。また、強さというものが曖昧で分かりにくいものである以上、表現を大きくするか、しつこくするかでそれを示そうとし出すので(それが傍目には一番分かりやすい)、音声的にもそれ以外の面でも、全体がやかましくなる。感謝、感謝の連呼が、嬉しいという気持ちの発露ではなく、何かの予防線、威圧のように見える。

 人には想像力がある。これと無縁で生きている人はおそらくいまい。行動が全てという考えは、想像力を著しく軽く見ている。表されていなければ、その内側にも存しないものとし、もしや表に出てきていないだけで内側にはちゃんとあるのではないかと想像してみもしない、これは傲慢ではないか。