<151>「平和でいいねえ」

 平和も危機である。それは全く穏やかな状態というのに耐えられない部分が少なからず誰しもにあるからだ、というようなことを以前書いたが、穏やかな状態というのに何となく我慢ならないところがあることと並行して、強烈な経験と、「本当」という観念とがあまりにも容易に結びついてしまうという問題がある。強烈な経験というものを否定する訳ではない。強烈な経験は強烈な経験だ。だが、その強烈さ故に、尋常な、平凡な経験は本当ではないのではないかと考えたくなる誘惑に駆られる。これは良くない。経験に、本当であるとかないとかの区別はない、と頭で考えて言うのは簡単だが、実際に、その経験が強いということは、当人に大変な影響を及ぼす(これが本当ではないと言うのか? だって、これだけ強烈で、手応えがあって・・・。日常の生活にはこんな衝撃はまるでないではないか・・・)。

 平和が時に、

「平和でいいねえ・・・」

という形で嘲笑、軽蔑の対象となるのは、おそらくその渦中に強烈さというものがないからであろう。どこか他のところでなまじ強烈な体験を経ていると、平和状態を「ぬるい」ものと見たくなる、あるいは無意識に見てしまう。そうして、表向きは皆で目指すべき目標だと言いながら、常に底の方では、

「とは言ってもここに居ちゃあいけないんじゃないか?」

という意識が働いてしまう矛盾が起こる(最も平和に生活している人でさえこの矛盾は少なからず抱えているだろう)。経験の強さを求めることは必ずしも悪いこととは言えないが、強い経験を「本当」だとして、その他の経験の軽視を始めることは、明確にまずいことだと言えるのではないか。

<150>「なんか嫌いらしいなあ」

 嫌いだ、ということを大した事件だと考えるから、変に繋げようとして状況を悪化させたり、そのままに留まることを何か大変悪いことのように考えたりしてドギマギするのではないか。嫌いが発生してくるところを観察するというか、考えてみると、実に何でもない、ありふれた、日常に身近なことだったりする。曰く、仕草が気に食わない、声のトーンがいや、ちょっとしたタイミングのズレが何度か重なった等々・・・。あまり大層な理由から嫌いが発生していることは少ない(勿論こちらもそれなりにはあるが)。すると、どういうことか。それだけ身近なことからをも発生する以上、嫌いは、生まれては消え生まれては消えし、決して無くなることはないということだ。そして、そんなどうでもいいようなことが簡単に嫌いに繋がる以上、そのことで執拗に自己を批判したり、落ち込ませたりする必要もないということだ(別にやって悪いということもないが)。要するに、大袈裟にならなければいい。嫌いだから二度と目も合わさないとか、逆に、真剣にぶつかることで何らかの解決を見なければならないとか、そんな極端にばかり振れるのではなく、極端を一般的な解決と考えず、ただぼんやりと、

「あっ、なんか嫌いらしいなあ・・・」

と思っておく、それで済むときはそれで済ませてしまえばいい。勿論、真剣にぶつかり合って和解を目指してもいいのだが、和解はつまり仲直りであって、最初から仲の良い地点というものを持たなかった関係では、和解も何もない。

<149>「著しく不自由と、そうでもない不自由」

 著しく不自由な状態と、そうでもない状態とがあって、大体はそのふたつに分けられるのではないかと思っている。ここで自由、本当に自由な状態というのはないのかという問題があり、私は、そういうものは想像の中だけにしか存在しないと考えている。あるいは仮に存在したとしても、決して耐えられるような状況としては現れ得ないと思う。つまり快適な、それでいて全てから解放された自由というのは、状況の設定遊び、言葉遊びになりかねない。それは身体構造や精神構造の問題なのかもしれないが、まるで制約がない、モデルもない、道もない、あなたの出す一歩一歩が全く自由だという状況を想定すると、矛盾するようだがそこには大変に重い制約がまたどこからか現れてくることになる、それは究極のところ、生きていても生きていなくてもいいという事実の重さ、完全な自由というのはそこまで行かなければ嘘だろう。そこを避けて求められる「本当の自由」は、既に言った通り、設定遊び言葉遊びになる、つまり言いようによって何でもありになる、そうするとおそらく迷走する、こんがらがる。それよりは、著しく不自由な状態に陥ることだけを注意して、巻き込まれそうになったらいち早くそこから外れるという対処をすることだけを想定している方がシンプルで分かりやすいだろう。また、混乱もしないだろう。受動的な態度であるかもしれないが、あるはずの本当の自由というものを追い求めて、次々に色々なものを外し、そのことによって逆にまた、新たな違った重荷を背負うようになるよりかはいくらかマシだろう。

<148>「持っていないものを、奪われる」

 何かが奪われるという感じが伴う。決して私が持っていた訳ではなかったのだが。何かが奪われた、その人も自分で持っていた訳ではなかったのだが。所有していないものを奪われるはずがないだろう、つまり何も奪われやしなかったということなんだよ、と言ってみたってどうも上手く行かない。所有していない感覚は確かなのに、奪われたという実感は非常にハッキリとしているからだ。

 持っていないものを奪われるということがあるのかしら。もうダメであるということを悟って、速やかに立ち去る。私たちとは違うリズムに移ったのだった。丁重とか救うとかいうことを揺らがせて。

<147>「黄金餅、現実的でないもの」

 現実感のないもの(現実にないものではなく)は、いくら集めても満足できないし、不安もなくならない。だから、あんなに沢山集めておかしいのじゃないかと言っても仕方がない、おかしいのは本人だって分かっているはずだ、しかし訳も分からないほど集めないではいられない。さっき不安はなくならないと書いたが、現実感のないものは不安と相性が良いとさえ言える。得体の知れない不安に襲われているときに狂ったように掻き集める対象としては、現実感のないもの程よく似合う。現実感がないからこそ信奉し、信奉したからこそ大量に集めたものが、ついにあんころ餅ひとつほどの現実的な充足すらもたらさなかった。作った人は特に深い意味を込めていなかったかもしれないが、金を食い物で包んで飲み込もうとするシーンは何かひどく象徴的であるような気がした。代わりに食料を(腐るのも気にせず)気が変になったかと思う程沢山溜め込むことはおそらくない、それはあまりに現実的過ぎるからだ。

<146>「ある空白の一点から」

 ステップアップの考え方に立てば、次第に経験は強度を増したものになっていくべきだし、濃い経験をして、またより濃い経験をして、という進み方をして、完全なゴールではないにしろ、ある程度の段階にまで達することが望ましい、というようになっていくから、当然経験が浅いうちは、

「まだまだ甘い」

ということになるし、経験の濃度が低い、強度が低いままで平気に暮らしている人は、

「本当の人生」

を生きていないことになる。

 しかし私は、ある空白の一点から徐々に湧き出し滲み出ししているのが人間の生であるという考え方に立っているから、何かの階段を徐々に上がって行っているという感覚を持たない、甘い人生も辛い人生もない、経験を濃度で区別しない、当然、何かに達することが重要だとは考えない(結果的に達したとしてもそれはそれだ)、「本当の人生」という観念を持たない。むろん、それぞれに考えはあるから、「本当の人生」なるものが確かに存在して、そこに至らない限りは、未だ本当の人生を生きられていないと考える人がいたとしても、それは別に何の問題もない(他人の領域に入ってきて押しつけなければ)。そういう人は、「本当の人生」なるものを探して、そこについに辿り着いたと思い、そこまで達しているように自分からは見えない人を、

「本当ではないな」

あるいは、

「あの人は全然甘いな」

と思っていれば、それでいい。

<145>「記憶に関する強迫観念」

 記憶に対する強迫観念みたいなものがあり、ついつい憶えすぎようとしてしまい(つまりいつでも沢山のことを想起出来るようにしておこうとする)、勝手に辛くなっていることがある。それはどこかの番組で見たことから始まったのかもしれないし、何かの文を読んだのかもしれない。しかしちょっと待て、そうやっていくつもいくつも常に想起出来なければ記憶に問題があるのだと、本当に自分で思っているか? 小さいときにそんなことを考えていただろうか。想起の量はその時々で限られるだろうが、結局憶えているには全部憶えているから心配ないし、ふとした拍子にあれやこれや実に様々なことを思い出すから大丈夫だ、と思っていてもやはり不安だ、普段は何にも点灯していないからだ。

 考えてみれば、記憶に問題があるという結論を下すのは(明らかにボケてしまっている場合は別として、その境目は)難しい。微妙な判定を必要とするとき、

「そうさね・・・。例えば、昨日食べたものを(時間をかけてもいいから)そっくり思い出せない人は、ちょっと危ないと考えていいんじゃないかな?」

と、専門家らしき人がポーンと例を提示する(こういうものを見ると、私の強迫観念は加速してしまうのだが)。しかし、その例を提示した専門家は、食べ物のことを考えるのが毎日の生活の中で何よりの楽しみになっていて、他のことは大して憶えていなくとも、食べ物のことだけは絶対に忘れることのない人だったかもしれない(つまり、自分の基準から例をスタートさせていたのかもしれない)。また、そんなことは一向憶えられやしないが、他の人からしたら無意味としか思えない数字の羅列は、まあこれでもかというほど憶えられる人もいるかもしれない。そういうとき、例えば、情報量としては圧倒的に数字の並びの方が多いとして、それでも、昨日の食事のことを満足に憶えていなければ、危ないということになるのだろうか? これはちょっと極端な例かもしれないが、現実には、ここまで極端ではないこうした微妙な記憶の方向の差異みたいなものは沢山あって、それをあるひとつの角度からだけ見ようとすれば、必ず失敗するのではないか、つまり、私が起こす強迫観念は(むろん起こされているということをも含む)、ひとつの角度からだけで記憶というものを測れるという神話から来ているのではないか。