<144>「込めているものは同じか」

 言葉を使うということ、同じ言語を使用しているということが、逆に異質さをハッキリと浮き上がらせる。到達したい方向、最初から決めてかかっていることが各々で違っていても、言葉の上だけでは巧みに議論が展開されているように見え、ちゃんとどこか共通の場所に辿り着いたかに思える。しかし言葉を通してちゃんとした順序が整えられていたとしても、後ろに控える意図がまるでバラバラだから、実は何にも組み上がっていなかったりする。愛はあるか、自由はあるか、という字面を見たとき、人はそれぞれ、実に様々なイメージを、考えを創造する。極端に言えば、愛があるという文字列を通過したとき、それを思い切り縛り込むことだと考える人もいれば、完全に解放させることだと考える人までいる。それで、

「あの人はこういうことを愛があると言っているが、それは違う、それは本当の愛ではない、本当の愛とはこういうものである」

とやっている(なんじゃそりゃ)。解釈が様々であるどころか、まるで反対にもなり、「本当の」という言葉を持ち出して固定しようとしても、また違う解釈の人に反駁されて失敗に終わる。こういうあやふやな、人によって定義が真逆になるような言葉をあまり信用していないのだが(確かにあるものだと思われているが、そのことをずっと疑っている)、

「人間は愛を持っているか否かが大事」

とか、

「人間は自由になり得るか?」

などの言葉が発せられると、何かそういう具体的な問題があるかのように錯覚させられてしまう、それは言葉の作用だが、そこに組み込む、あるいは組み込まれるものが各々によってバラバラであるということを見ないと、何かがずっとズレているまま、延々と無用な、というか変な議論を続けなければならなくなる。

<143>「もう少し奥まで」

 この人は一体何者なんだ、それはお前、豆腐屋のオヤジじゃねえか、極端なことを言えば、いや、言わなくてもそれでいいのであって、皮肉ではなく、こういう判断をスパッと出来る人が一番鋭いと思っている。あっちへ行って情報を集めこっちへいって情報を集め、取材し、その人の浅いところも深いところも満遍なく知った専門家が、

「お前何をぐりぐりぶん回してるの? あいつは豆腐屋だよ?」

の一言で、中心をどきりとやられる、なんていうのは、おそらくよくある光景だと思う。

 要するに、分け入れば分け入るほど、よく分からなくなる。どうもこの人がこうであるというのは、深く知れば知るほど見失うようになっているらしい。だから、判断をしようと思うならば、沢山のことを知る必要はない、見えているものをそのまましっかりと捉えればいいのだ、判断をしようと思うなら・・・。私はその点でどう考えているかと言えば、この人物は一体誰なのか何者なのかがどんどん分からなくなればいいと思っている。判断不能の領域に侵入して、確かに戸惑うかもしれないし、戸惑うなと言われてもそれは無理な話だと思うが、そこで、

「まずい」

と引き返すのではなく(賢明な判断ではある)、もっともっと分からない方へ、顔の輪郭があやふやになって、見ているこちらが少し酔った状態になるまで、この人について何か発言しようとしても、ああとかううとか言うばかりで、確かな言葉のひとつとして出てこず、それによって自身も周りの他者をも同時に混乱させるまでに分け入って、何にも分からないところまで進んでいければいいと思っている。

<142>「欠落感の自然」

 全部は見えないはずの自分が、鏡や記録映像や画像によって眼前に現れる、しかしそれがいくら鮮明であっても、リアリティが感じられても、肉感を持った存在、肉体というものが現にここにあるように感じられる存在として私の目に映る訳ではないから、そういったものを介して見えてしまう私というのは、自己というものを崩さないのだろう。つまり逆を言えば、身体に埋め込まれたものではない、ある程度自在な動きが可能になった目玉が(昨日の文を参照)、直に肉感を持った自分の身体というものを眺められたとしたら、自己というものの同一性が揺らぐ、分裂する、あるいは自己というものが(観念が)無くなったり、稀薄になったりしてしまうのではないか、というような気がしている。

 欠落の感情、何かが足りていないという思いは、循環的な在り方と関係しているのでは。つまり吸ったり吐いたり、食べ物を入れたり滓になったものを排出したりと、延々に出して入れての循環を繰り返さなければ生きられない身体を持っている訳だから、出した量に比例する量が入っていない状態に置かれれば、当然何かが足りていない感覚に陥る。また、充分な量が入っている場合、瞬間を取り上げても、循環的な在り方を承知している、つまり出ていく予感というものを確かに持っているから、何となく全ては満たされていない気持ちになるのも当然なのではないか。であるから、現実にある、これこれの物が手に入れば完全に満たされるとか、ある考えの深みにまで到達すれば、完全な満足が待っているということは無く、欠落感は身体の根本条件から来るもので、いつまでもあって当然のものなのだと、今のところは思っている。

<141>「もし目が飛び出ていたら」

 少々化物じみた表現になるが、例えばもし人間の目玉が、虫の触角のように、眼窩からいくらか伸びた線の先にくっついていて、ひねりを加えさえすればその先っぽについた目玉は、360度どこでも見渡せるようになっていたとすると、鏡の役割を為すものを介さなくても、自分の目で自分の身体を見ることが出来るようになる訳だが、そういう見方を得ると、きっと自身を風景の一部とみなすこと、全体に溶け込んでいると考えることもいくらか容易になる気がするのだが、尤も人間の身体は実際そのように出来ていないのだから、容易になるのかどうかは分からない。この細い線で繋がった先の身体は、はて自分のものなのかどうか。自己とは、見えないことではないだろうか、それは、全部ちゃんとは見えないことと言い換えた方が良いかもしれないが、自己というのは、身体とそれに埋め込まれた眼球との共犯関係の上に成り立っているもののようにも見えてくる。風景になることを拒否する。目に負っている部分が大き過ぎて、私というのは大体目線の位置にいるような感覚があるのだが、もし見えなくなったらどうなるのだろう? 眼球が嵌まっていればそれはそのままで影響がないのだろうか? 見えるということはやはりひどく関係しているのか?

<140>「風景ではないという不安」

 どこに行っても自分だけが本当ではない気がするのは、目の付き方、その方向が問題だという気がしている。つまり、結局それは誰でもそうなのだが、自分以外の人の目は全てこちらに向かうことが出来、自分の目だけがこちらに向かうことが出来ない、というところに由来するのではないかと思っている。その人が孤独な人であるとか、比較的大勢の人に囲まれた人であるとかは、従ってあまり関係がない。目の付き方、向きというものが、周りのもの全てを風景に仕立て上げ、反対に自分自身を、映さないという仕方で(映せないというあり方で)風景から遠ざける。因って、自分も風景の一部なのだと芯から納得することはおそらくない(修練によって越えていくこともあるのかもしれないが、それはまだ私にはよく分からない)。同じ風景であり得ないという不安は、つまり物質的なものから来ているのではないか。

<139>「途方に暮れるという時間」

 途方に暮れていた人、終始途方に暮れ続けた人を笑えないと書いた、それは自分の似姿だ、いや、自分よりも自分自身であったのかもしれない。与えられたものに対して、こちらも積極的に答え(応え)を付与していく、何かを見出していくことこそ生きるという作業だ、と自信を持っている人たちに、ずっと驚いているのだろう(良い意味でも悪い意味でも)。ずっと驚いている人間の顔は、驚きを顕にすることを忘れている、いや、そのように動くことが不可能になっていると言うべきか。延長を続ける長い一日と、断続を繰り返す幾日と、全く矛盾しないということが受け容れがたいのは、頭で考えるからだ、身体は何らの違和も表明していない。あれやこれやの数え切れない程の経験をして途方に暮れる、草臥れた背中、よく分かる、しかし、何も通過していないとも思えるような幼子が途方に暮れていたって別におかしくはない、途方に暮れることから始まることもあるからだ。まだまだこれからであるかどうかはその点関係がない。

<138>「ないなりのものは拡がり」

 ないものをこねくり回す、それが嫌だと言ったって、もちろん程度の問題はあるだろうが、こねくり回せる確かなものというのはないのであって、ないものをそれなりに、こねくり回していくしかないのではないか(こねくり回すとすれば)、というのはまさに『かのように』という処理、非常にシンプルな話であるし、シンプルだからこそということもないのだろうが、大事な処理でもある。しかしシンプル故に、その処理がどうこうという問題はまあ今のところどうでもよくて(それは価値がないという意味ではない、むろん価値というものはないのだが)、

「こねくり回しているものは、ある確かなものだ」

という確信の無根拠さに注目する。それが、ある程度を持つと考えているだけならいいのだが(ないなりに)、ないとあるを混同しているとしたら、それはお粗末だ。振る舞わなければならない、何もないままではとりあえずのものさえ成り立たないからだ、言語を見るとよく分かる。しかしそれを、ないなりのものと思わず、あるものだと取り違えると、どこかで間違える(あるいは最初から)、それを警戒する、何かに至るためでないからこそ拡がるのではないか?