<1645>「ものの進め方、アドバイス」

 最近は特に政治ということを考えている。

 そうで、政治について考えているのではなしに、つまり国や都道府県が行っていることがどうだということについて、考えたり、関心を持っている訳ではないということ。

 日常生活、というか、生き方、を日々続ける中で、どうしても、政治的なことが不足していると問題が起こる、と考えることが増えた、とでも言えば良いのか、いけない、どうしても政治という言葉には、国や都道府県というワードが付いて回る、それではない、ということ、政治ということ、と言うとき、言いたいことが、浮き出るといいな、と思う。

 正しいことを主張したり、批判的に検討して次の段階に到ろうとするときに、目的は何か。

 その方が良いと知ってもらって、浸透していってもらうためだというならば、相手を無下にしたり、あしざまに言ったり、しながら進むことは誤りだ。なぜなら、それによって相手は硬化し、全く浸透していかなくなるからだ。また、あしざまに言うことは避けたにしても、一度にポンと、かたまりの全容を提示してしまうのも良くない。消化が難しいと、量を見て判断されれば、浸透しない。

 相手を、説得するのではなく、時間をかけて、分量を間違えずに、ゆっくりとなかへ染みていくのでなければ、政治が足りなければ、せっかく良い案件を持っていても、勿体ないことになる。

 それは、そういった出来事は、大抵不器用の一言で形容されて終わる。そうではなくて、日常のあなたのしざまひとつひとつにもっと政治を、ということではないか。政治。

 国や都道府県のことではない、日常のことで、もっと政治が使われた方が良い。誰かをおしのけたりあしげにしたりするためではなく、浸透の作法とか呼吸というものを体得するためにも、もう少し政治。

 

 これはこの流れとなにか関係があるかしら。全くないような気もするけれども、次はアドバイスについて。

 そう、これはついてなのだな。アドバイスをするところを想像してみてくれたら嬉しいですよ、私はまごまごする、まごつく。いつも、不可能な地点に立たされたような、気持ちがするから。

 まず、年齢や、経験の異同にかかわらず、現在という、決着のつかない地点にいる、ということにおいて、平等である私とあなたがいて、そこから「はい、アドバイスひとつ頂戴」、私だけ形だけ、本当はそんなことないんだけれども決着の付かない地点から抜け出して、決着が付いたと仮定されたポジションの上に立ち、アドバイスをひけらかす。ここでうん? と首を傾げる、私も、あなたも。例えば私は小学生はとっくに終わったけれども、小学生という時間は経過した。そこで、現在小学生にあたる人に、小学生はもう既に決着したものとしてアドバイスをしようと思っても、私は、小学生という時間を決着の付かない現在としてしか経過していないし、また今の現在も決着の付かないときとしてあり、そこを経験し続けていて、つまり決着が付いた状態から始まって時間を過ごしたことがないから、アドバイスはどうしたってとんちんかんになる。小学生からしたら、

「現在じゃない地点から話したってダメだよ」

「あなただって小学生ではないけれども、決着の付かない現在にいることには変わりがないじゃないか、お互い様じゃないか」

ということになる。もっともである。

 また、アドバイスは凝集のわざである。本当は今いちいちこの短い時間の中で言っていることは、20年かけてだんだんと腹に落ちたことかもしれない。それはだからきいた人も20年間同じように経ないといけないことかもしれない。でも、20年間付き添う訳にもいかずまたそれは迷惑というものでもあり、凝集する、当然何か、言葉としてはそうだけれども、時間の経過が考慮に入っていない、不可能なことを述べ立てることになり、話者聴者ともども困惑する。

 それに、現在の立場というものが、すらすらものを言わせているということが当然にあり、「私は立場がまったく変わってもこの言いを同じようにするだろうか」ということがひっかかっては、なかなかなかなか、アドバイスなどはより一層困難になる。

 

 どうしたらいいか、ということになると、まごついていくより仕方のないこと、とでも言えようが、現在という立場を抜け出たり、また、現在の立場でしか言えないようなことを言うのでは仕方がない、ということにもなる。また、注釈のように、幾々年かかる、ということも、ぼんやり言われていれば、良いか。

 これはもう、どのような状況におかれても、この姿勢、態度、物へのあたり方は、このようであり、それは変わらないという、自身の方法を言うよりは、仕方がないのではないか。「私はどのような状況に置かれても、これはこうだと決めているから、方法としては、これを取っています」という現在を、簡潔に伝えるよりほかにはない。

 立場というものの左右には関係なく、これを言うだろうな、ということが、相手に伝わるとなお良い。この人、場合によってはこんなこと言ってられなくなるのじゃないかしら、と思われたら、アドバイスは道の途中でまごつくよりしょうがない。

 それで、時間のかかることは、時間のかかるなりに、これは凝縮のわざですよ、という注釈が付けられ、、それが可能な場所ならば、少しずつ、小出しに、アドバイスはなされる方が良い。

 政治ということ、と多少かかわりがあるような気がしますね。なんでこんなことを考えるかというと、いろいろ制約なりなんなりはあろうけれども、正しいと思うことを、全量、相手を張り倒すような勢いで叩きつける、それで浸透していかなくてなんでだ、とおこる、それはいくらなんでも、浸透していかないですよ。無理な腕の振り方をしている、と思う、また、自分も、一挙叩きつけを、それで浸透すると思って間違えていた時期が、そういえばあったのだな、なんてことを考えて、いたのでしたから、こういう関心が着々と浸透してきた、ということなんだ。

 はい。冷静に浸透を考える、という、ただ圧力をばんとはらいのけるのでは、勿体がないですよ、と思ったりするのでした。身振りに当たり前に政治が混じりますように、と。その方が両者、三者、何人でも、良い経過じゃないですか、ね。