<1521> <家の片付けをしていて思った事>

 ちょっと家を片付ける必要があった。それで、まあ、結構な量を、整理というか、主に処分していました。

 そうしていますと、どうしても捨てられない、と言うか、捨てるという考えが及ばないものが出てきますね、実際。

 小学生のときに作った自由研究の、新聞切り抜きスクラップ帳だとか、中学生のときに作った棚、小箱。

 小学生のときに作ったぞうの像(なにか、牛乳パックなどをまとめて作ったものでしょうか)、など。

 自分で作ったものは捨てがたいんですね。買ったものは案外満足すれば捨てられます。

 

 不思議なのは、その時間、つまり実際に作っていた時間のことですが、に、特別楽しいとか、熱心にその小箱ひとつを作っていたという記憶もとくにないんですね。

 でも、そのときから時間が経てば経つほど、といいますか、それら作ったものが、だんだんとこの居住空間のなかへ落ち着いてきて、離れがたいものになってきています。

 おそらく、その、実際に作っていた時間というものの上をは、静かな喜びが、長い時間持続的に通過していたのでしょう。

 そのころは今よりもっともっと幼いですから、それが楽しいことだということ、喜びだということに気がついていなかったのかもしれません。

 なんだ、学校というのは、訳の分からない規則だとか、あって、同じ年頃の子どもたちが集まっていてしんどい場所だ、というのはいくらか本当であったかもしれないけれども、自らでものを作り、その作る過程のなかに入り込むことにより、時間の中を、静かな、持続的な喜びでもって通過出来る、ということを、何度も、何度も実践によって教えてくれていた場なのだなあ、ということを思い合わせるにつけ、

 (そう、物事の悪い面ばかりを強調して見てばかりいるのはよそうよ)

と当たり前に思えるようになりました。

 そして、嬉しい場所を通過させてもらっていたことに気づいてとても安心するような気持ちも少しずつですが出てくるようになりました。

 

 美術の、中学校の時間だったと思いますが、美術室から見える、住宅風景を、友達二三人で一緒に見つめながら、一心にスケッチしている、、

 どこかで、当たり前にチャイムが鳴るのだけれども、あれ、美術の時間というのは、二時間続けて行われるようなこともあったのでしたか、全く誰も彼も気に留めないでいる、その空気感に乗って、あたしもまた住宅の肌と付き合っている、

 そうこうすると、当たり前に二度目のチャイムが鳴って、今度は途端に皆が当たり前の中学生に戻ってがやがやとしている、そのような時間が、なんと静かな時間だったか。

 

 私は小学生のときに週末になるとキャンプに行くようなことがあった。

 体験が、やっぱりしんと静かで一番面白いんです。

 和紙を作りました、どこかは忘れてしまいました工房で。

 とても、よく出来るんです、たくさんの、玄人の方が上手く手を入れてくれていたのだとは思いますが。

 ただ、それを我が家に持って帰って、これは、とても日常様々の書きものに使うものではない、なんてったって、今書いているこのノートとか、(中性紙と書いてあります)、こういうものに比べたら、和紙って書きにくくてしょうがないと思います。

 でも、静かな時間が入っていて、時折こういったもので手紙を出すとか(実際に出したこともあると思います)、そういうことは、やっぱり、嬉しいことです。