<426>「透明さと遊び」

 消去法で、消極的に、おんなじ人間になろうとしている。いや、誰か特定の人ではなく、透明の人、どこにもはみ出すことのない、どこにも異常の見つからない、透明な人に、消去法で、消極的に、なっていく。では、反対に戻っていくのがいいのだろうか。とんでもない! 元に戻るなんてとんでもないことだ。そう、たとえ透明な人間が、どんなにか味気なかろうとも、かつてのとんでもなさよりはマシなのだ。当たり前のこととして受け止めていた当時ならまだしも、一度、より透明度の高い場所に移った後では、とてもじゃないがそんなとんでもなさへは戻れない、また、戻りたいとも思われていない。

「ええっと・・・。それじゃあ透明になって、誰もが何の味もしなくなるところまで進むより仕方なくなりますよ、このままじゃ。どうしたら・・・」

「う~ん、どうしたらって言われても、困りましたねえ・・・。全員が、一切味のしなくなる方向へと進む、透明さへと向かうのは、積極的にそこを求めたが故のことではないのですから。誰がそんな、魅力を自ら削ぎ落とす方向へ進むことを望むでしょうか。色や味のなくなる方向への自身の動きを歓迎しようと思うでしょうか。しかし人間は、常識的にものを考えることが出来ます。考えてしまうと言ってもいいです。今現在及び将来において、どうあるべきかを常識的に検討した場合、消去法によってそこに無味無臭さが浮上してくるのをどうすることも出来ないのです」

 ここで、抵抗したり反発したりするのはよくないのを知っている。何故なら、それは最終的に、戦っている対象であったはずのところの大きな流れと合流して、皮肉にもよりそれを生かしてしまうことになるからだ。どうするんだ、すると、お前はどうするんだ。元に戻すのではなく、抵抗も反発もしないとすれば、上手くすり抜けるしかない。上手くすり抜けるにはどうするか。遊びのことを考えて、考えて、考えてみるしかない。ストイックに、判断というものを容れない姿勢でいるしかない(ひとたび判断を容れてしまえば、それはそこからすぐに透明さへと繋がっていってしまう)。真面目に取り合わないようにするしかない。