<304>「鏡の前」

 まともであると思われるために奮闘しているのか、まともでないと思われるために奮闘しているのか、おそらくそのどちらでもあるために、何が何だか分からなくなり、そこには、まともであろうとする異常さと、まともでなく見られようとする正常さとがあるということになる。おそらく洞窟の中で、壁を向いて坐り、動く実体の影を見ているのではなく、延々と鏡を見ていてその中に映るものを本物だと錯覚しているのだろう。いや、この身体こそが鏡によって反転させられている方なのかもしれないが、映像に残る私の遠さと、鏡に映る私の近さとは、普段見ている頻度だけに拠るのだろうか。鏡に映って反転している私、こちらが反転させられている存在だとしたらば、鏡によって元の向きに戻されている鏡の中の私、その存在の確かさに目を奪われ、限りない私への接近を、いや、そのものをも感じているのでないとしたら、どうして鏡などというものが持ち出されるのだろうか。それは見るものだ。何故自分を見てしまうのかを鏡の前に立つ度に、ゆっくりとしかし散漫に考える。