<224>「肯定と否定とケチ」

 ただ放り出されているだけなのに、これは最低限しなきゃいけない、何かの為に生きなきゃいけない、それでないと価値がないと否定していくのはケチなやり方だ。放り出され、吸って吐いての運動を繰り返す存在は、他者からも自身からも近寄り難く、侵し難い、また侵してはならない深遠さを持つ、ということだけが大事で、それ以外に加わる限定(否定は限定することだ)は全てケチなものだ。何かを加える必要がない。

 それだけが大事だということはつまり、肯定もまたケチなものだということだ。これは疑問に思われるかもしれないが、肯定することにもやはり徒な限定がある。これはいい(たとい全部OKなんだと言うにしても)という表現が為される以上、その裏には、これはよくない、というものがくっつくから、それは結局否定的な限定になる、というだけのことでなく、ただ放り出されているものを、その全体にせよ部分にせよ、良いという形に嵌めること自体がもう余計な、ケチなことなのだ(否定に結局関係してくるからという理由ばかりでなくそれ自体でもということだ)。否定をすることは傲慢だ。さて一方、肯定をする段になって、良いこととされているはずなのに、いつも何かしらの居心地悪さ、気持ち悪さを感じてしまうのだがこれは何か・・・と思っていたが、そのケチさが自分でたまらなかったのだろう。