<162>「生活する身体」

 例えば生活の細部、そこで何が使われているのか、どのようなルールの下にあるのかなどに驚くことはあるだろうが、生活自体に驚くことはあまりない。これは、他人の生活の想像困難性にも関係しているのではないか。つまり密接過ぎて見えようがない、しかし密接であるが故に何の違和感もない。全く普段とは違う生活環境に放り込まれても、すぐに対応できるのは不思議だ。今までずっとそこで暮らしてきたように感じられ、また、去ると一変、そんなところで生活などまるでしていなかったかのように思える。生活とは身体だ。つまりはそういうことだろう。何事かを呼吸していればいいのであって、見えなくてもちっとも構わない。久しぶりの対面で、

「どう、最近何やってんの?」

と訊けるのは、それが気軽だからだろう。それが深刻な一事、つまり相手が何をやっているのかが見えてこないのが一大事なのならば、決してそんな具合には訊けない。だからということもあるまいが、ミステリアスな生活、人物と銘打たれても、あまり興味をそそられない。全て他人の生活は、見えてこないのが当然だからであるし、見えないことが何かとても不思議なことだとも思わないからだ。しかし、興味がないということでもない(というより興味ではない)。そこに確かなひとりの身体運動があることを感じ、実際に訪れればそれをそのまま確認出来るだろうことを想像する。