他人に拠って起こるけれども、他人には関係がない

 逐一好きかどうかを確認していないと関係が維持できないのは、好きという気持ちを感じる力が弱いからなのか、強いからなのか。

 もし、しっかりと相手の気持ちを感じることが出来ていたら、いちいち確認する必要が無くなるだろうから、やはり、そんな面倒なことをしている限りは、好きを感じる力が弱いのだと言えるだろう。

 とも思うが、しかし、感ずる力が強いからこそ、本来好きならば当然示してくれるであろうポーズを、相手が示してくれていないということに敏感に気がつき、執拗に質問を繰り返してしまうのかもしれない。

 こう見てくると、矛盾するようだがどちらも正しいような気がしてくる。そうすると、感ずる力が弱い一方だとか、強い一方であるということはおそらくないのだろう。

 また、

「感ずる力が弱いからこそ云々」

と意地悪な疑りを入れてしまったが、これは、好きという現象の性質を考えると、そもそも他人のそれを上手く感じられないのは仕方がないのかなと思い始めている。

 好きという現象の、起こり始めには対象としての他人が必要なのだが、そこからひとたび動きだしてしまうと、もう他人はその後必要無くなってしまうのだ。つまり、今までとは違うリズムで身体が動きだし、一気に軽くなったように感じるところまで行くための、最初のキッカケとしての役割しか他人は果たせないから、ひとりでに動き始めてしまった後は他人が必要無い、

「好きという現象」

は、他人が感じられるような類のものではないのだろうということだ。