同級生と肩を抱き合い、オンオン泣きながら別れを惜しむ人たちを横目に、証書の入った筒を慰みにいじりながら、なかなか終わらない卒業式の時間を潰していた。
卒業式はこのときが初めてではなかったから、この日を境に、ここに集合している人たちがまた一堂に会することなどほぼあり得なくなってしまうということについて、知らない訳ではなかった。
ただ、それを知っていたところで特に何の感慨もさみしさも湧いてはこず、
「帰ったら図書館にでも行くか」
と、その日の午後の予定の方へと無邪気な関心を寄せていた。
相変わらず、同級生はすぐ近くでオンオン泣いている。こういう人たちはよっぽど感激屋なのだろう。俺は感情が薄いんだな・・・。
そんなことを思い続けてきたが、ふと今になって思うのは、
「泣いていた人たちは、よく気づいていたのではないか」
というようなことだ。もちろん感激屋でもあったのだろう。だがそれだけではなく、気づき過ぎるほどに気づいていたのかもしれない。
「気づいている」
というのは、また一堂に会することが出来る確率は怖ろしく低いという事実を知っていたということではない。そんなことなら私も知っていた。そうではなく、卒業することによって、確かに自身の身についていたはずのものが、明らかにポロポロと剥がれ落ちていく様を、あまりにも鮮やかに見てしまったのではないかということを表している。
そうすると、確かに剥がれ落ちていっているという事実を私は、何年も経った今の今になっても気がついていないだけだと言えるのかもしれない。泣くぐらいの大きな変化が起きた、ということに、未だに気がついていないだけなのかもしれない。