始まりはいつもボンヤリとしていて・・・

 一昨日に、

「赤ん坊は、一生涯のうちで一番大きな困難を経たうえで、無邪気に笑っている」

ということを書きましたが、残念ながら、

「俺はそういう大変な困難を、赤ん坊の時に超えてきたんだ」

といったようなことは全く覚えていないというのが、大方の人の常であると思われます(だからこそ「赤ん坊は世の中の残酷さを知らなくて良いねえ」などという発言が飛び出してしまうのでしょう)。私も、ハッキリ言って、赤ん坊の時の苦難というのは全く覚えていません。

 母親の胎内にいたという状態から、ある日突然外界へ飛び出していき、外界での生活がまた新たに始まる、という大転換は、記憶の中に深く刻み込まれて一生忘れられない、というようなことになってもおかしくないぐらいのものだと思いますが、実際は、びっくりするぐらい何にも覚えていないというのが実情です。

 これはしかし、何も赤ん坊の時のことに限らず、新たな変化を体験した瞬間、新しく何かが始まった瞬間、というのは、それが起きた瞬間にはよく覚えていたかも分からないですけれども、後になって振り返ってみると、一体この劇的な変化が起きた瞬間というのはいつだったか、ということは、意外とぼんやりしてしまっていて、明確に、

「この瞬間であった」

ということは、もう思い出せなくなっているということが多いような気がします。

 例えば、もうずいぶんと長い付き合いになる友達との関係性にしても、何をきっかけにここまで仲良くなったか、いつの日を境にこれだけ仲が深まったのか、ということは、人生の中でも比較的重要なことであるはずなのに、曖昧に、

「大体この時期であろう」

という、ある程度の予測を立てることしかできず、ハッキリと、

「この瞬間だ(この日だ)」

ということは、言えなくなっているのです。

 また、あるアーティストを好きになったキッカケにしても、

「確かあのとき、あの歌を耳にして・・・」

などといった、ボンヤリとした推測を立てることしかできず、

「まず間違いなくこのタイミングで好きになった」

ということは忘れてしまい(ただジリジリと好きになっただけかもしれませんが)、気づいたらもうその瞬間には好きになっていたから、いつから好きかということは思い出せない、ということになってしまっているのです。