『何事に於いて、どうも私は急である』というものを以前に書いたのだが、実を言えば、他人には見えない内側の部分において、しっかりと過程を刻んでいるので(もちろん、しっかりと言っても、論理とはとても呼べない自分にしか通用しない論理、訳の分からないためらいなどは含まれる)、あまり自分の中では、
「物事を行うのが急だなあ」
とは思っていない。ただ、外から見てる人には、私の内側の過程など見えていないので、
「きっと他人様は急だと思うだろうなあ」
と考えて、
『急である』
と述べたまでのことなのだ。
それで、何故その内側の過程を見せないのか(他人は驚くに決まっているだろうに)と言うと、それは、私が心底からその必要を感じてはいないからである。
ちょうど、
「英語を覚えよう」
と漠然と思っていても、心底に、
「覚えたって、日常で使う場面が皆無じゃないか」
という意識があるから、結局習得に全く身が入ってこないかのようなものである。
つまり、自身のうちで、
「過程は内側で済ませば、それで足れり」
としているのだ。それで自身は満足だし、
「その過程が可視化されなかったことに拠る、他人の拒絶は仕方ない、それは他人に選択の自由がある」
と思っているから、あまり可視化しないことに対する反省もしていないのだ。
しっかりとプレゼンテーションをして、分かりやすいように場面々々で印を置いていった方が、物事が円滑に進むだろうことは知ってはいる。だが、
「自身が処理法に納得していて・・・それ以外に何がいるんだ?」
という根底の意識は揺らがない。