人が信じられないんだという話をすると、
「本当に人のことを信じられていなかったとしたら、外なんか歩けないよ。でも実際は普通に歩けている訳でしょう? ということは、あなたはもう既に人を信じられているよ」
という言葉が返ってくることがある。
なるほど確かに、言っていることも分からないではない。ただ、なんとなくどうも納得のいかないような感じがする。そもそも、
「信じる」
という言葉には、何かすごく積極的な響きが込められているが、私が外を歩いているときに、他者に寄せている思いはそんなに積極的なものではない。むしろ、そのとき私が寄せているのは、
「最低限の身体の安全確保、自己の周囲に対する最大限の注意を払った上で、それ以上の避けられない危険度を伴ってやってくる災いについては、もう仕方がない」
という消極的な思いだ。つまりそれは、
「諦め」
だ。
外に出る際に、ある程度の注意は払うが、払った注意以上のものが他者によってもたらされてしまった場合(後ろからいきなり刺されるなど)は、もうしょうがないよねという、
「諦め」
が、私に、外に出ることを可能にしているのである。そこにあるのは、
「他者を信じる」
という姿勢ではない。