仲の良い人達と遊びに行く場合、遊ぶ場所、内容は、もちろん考えるけれどもそれほど重要ではなく、そのメンバーでいることが一番重要で、どこに行って何をしようが、ちゃんと楽しめる。
反対に、仲が良くもない人達と遊びに行く場合は、たといどんなに遊ぶ場所、内容ともに最高であっても、心の底から楽しめない。
だから、遊びは、
『「どこへ行くか」ではなく、「誰といるか」の方が重要だ』
なんてなことが言われたりする。
成程、自分の経験に当てはめて考えてみると、誰と遊ぶかのほうが大事だという話には概ね同意できる。
しかし、
『遊びの内容、つまりは「どこへ行って何をするか」ということの方が、「誰と遊ぶか」ということよりも強い吸引力を持つことは稀にあるなあ』
ということもまた、同時に思ったのであった。
小学生の頃の話である。ひょんなことから私は、あるクラスメイトの男の子の家で遊ぶことになり、その子の家で「ファミスタ(確かファミスタという名前であった)」という野球ゲームをやることになったのだが、これが抜群に面白かった。いつまでもファミスタをやっていたいという衝動に駆られるほどの面白さであったが、時間は有限である。それに、当時は小学生であったから、夕方のチャイムが鳴れば、それに帰宅を促されるかのように、その日は、その子の家を後にした。
家に帰って、
「ファミスタを買ってほしい」
と親に頼んでも、すぐにその願いが受け容れられる訳の無いことは分かっていたので、
「早くまたあの子の家に行ってファミスタをやりたいなあ・・・」
という想いを自分の中だけで噛み締めていた。
そしてまたある日のこと、学校を終えて帰宅の途につこうとしていると、一人の友達が、私を遊びに誘ってくれた。詳しくは憶えていないが、たしか、
「一緒にキャッチボールをしよう」
というような誘いであったような気がする。その日は特に遊ぶ予定も何もなかったので、彼の誘いにたいして、何のためらいもなく、
「良いよ」
と応えた。
その友達と、集合時間及び場所を確認し合った後、しばし別れて、再び帰宅の途につこうとしたその時、
「今日また家に来てファミスタやらない?」
と声をかけてきた友達がいた。もちろん、あのとき家でファミスタをやらせてくれた、あの友達だった。
この時点で私には、遊びの先約がある。しかも、キャッチボールは好きだし、それに、誘ってくれた友達のことも好きであった。だから、後からきた誘いは、断る以外に選択肢がない。
しかし、あろうことか私は、ファミスタをやろうと誘ってきた友達に、
「良いよ」
という返事をした。その子の家に何時に向かったらいいかを確認した後、家に帰ってから私は、キャッチボールに誘ってくれた友達の家に、
「用事が出来てしまった」
という偽りの理由を添えて、断りの電話を入れた・・・。
別に、キャッチボールがやりたくなかった訳ではないし(むしろやりたいぐらいであった)、その友達のことも好きであったのに、
「ファミスタ」
という遊びの内容に強烈な力で引き寄せられた私は、嘘をついて先約を断るという無礼を働いてまで、ファミスタが家にある友達のところで遊ぶことを選んだのだ。その友達を選んだのではない。ファミスタを選んだのだ。
この時の私は完全に、
「誰と遊ぶか」
ではなく、
「遊びの内容それ自体」
を見て判断を下していたのだ。