例えば、怠惰な心を自分の中に認めたときに、
「怠けてばかりいちゃダメだ」
と、自分を奮い立たせるということならば、よく分かるのですが、自分とは何の関係もない怠惰な他人を掴まえて、何の正義感の為かは分かりませんが、
「怠けていたらダメだろ!」
と怒りたくなるのは、一体全体どんな理由に拠るのでしょう?別に、赤の他人が怠けていようが怠けていまいが、本当は何も関係がないはずです。
しかしやはり、怒る、あるいは怒りたくなるということは、怠惰な他人と自分との間に何らかの関連を見る気持ちがあるのでしょう。私自身も、普段は怠惰な人間ですから、怠惰な他人を掴まえて、怒りたくなるということは無いのですが、それでも、自分が忙しくしているときは、怠惰な他人を見つけた場合、多少ムッとするようなことがあります。
そうすると、怠惰な他人に対して湧き上がる怒りの根本には、
「私は忙しくしているのに何故・・・」
というような、不平等感が横たわっているのでしょうか。
しかしよくよく考えてみれば、全員が全員同じだけの忙しさを抱えているなんてことはあり得ませんし、当然、自分が忙しいときに、暇を生きることが許されている人が一定数いることは当たり前な訳です。それに、これだけ豊かな時代になりましたから、ボケーっと何をするでもなく、ただ徒に過ごすことが許される人が増えていくのは当たり前のことです。
では、関係ないとは分かっていても、怠惰な他人にイライラしてしまう人達は、忙しさから解放されれば、イライラしなくて済むのかと言えば、話はそう簡単にまとまらないというのが、また難しいところです。
というのも、
「私は忙しいのに何故・・・」
という理由で怒っている人たちの中には、一見矛盾するようですが、その実、
「暇にも耐えられはしない」
人たちが一定数いるだろうと思われるからです。
そういう人達は、暇に耐えられはしないからこそ、忙しい忙しいと言いながら、忙しさの中に留まります。そして、それで話が終われば良いのですが、自分は全く暇に耐えられないから忙しさの中にいるのに、暇に耐えることが出来るゆえ、忙しさからはまるで縁遠い生活をしている人がいることが頭に来てしょうがないので、今度は、
「どうしてそんなにボケーっとしていられるんだ」
という怒りが、怠惰な他人にたいして湧きあがってきてしまうのです。
それならば、他人を怒る前に、暇の状態でも楽しめるような技術を蓄えていけばいいだけの話なのですが、忙しさでしか気を紛らわすことが出来ないと、どこかで勘違いして、決めつけてしまうのでしょうか・・・。