今は我慢しながらも、不満は残しておく

 我慢ならないけれども、今は我慢するより仕方のないことはいくらもあると思います。例えば、私なんかは、

『別に自分で選んだ訳でもないのに、この世界に「子ども」として誕生させられ、弱いポジションに据え置かれた上に、助けてもらっているんだから親には感謝しろと言われ、それなら親に助けてもらっていればいいかと思えば、社会の方で「大人」とされる年齢が勝手に定められていて、自分がその年齢に達すれば、いつまでも親に甘えるなと言われる。この、自分でポジションを選ばせてもらえない感じ、否応なく生まれさせられたのに、いやに外から急かされる感じは何なんだ』

ということを常に不満に思っているし(笑)、また、他にも、

『社会に出ていくにしても、もっとゆったりとした流れの中で働きたいのに、何故こんなにもせかせかと、しかも一日中働くのが当たり前の社会なんだ』

という不満も持っていますが、これらの不満は、確かに口にしても今は仕方がないかもしれないし、これらの不満を私が口にしたからといって、何か社会がすぐに変わっていく訳でもないと思います。

 ただ、今は我慢するより仕方がないにしても、不満を持つことそれ自体は良いんじゃないかと思うんです。ですから、

「これこれこういうことを不満に思っている」

という話をしたときに、

「我慢しなさい」

という言い方で片付けられるのはちょっと不満があるのです。今は我慢するより仕方がないとしても、だから不満も持ってはいけないというところには繋がらないと思うのです。それに、そもそも行為、あるいは姿勢として「我慢する」ということと、内心で「不満に思う」ことは完全に別のことだと思うので、

我慢する=不満を言わない

ではないと思っています。

 また、今個人が、あるいは世の中が我慢していることの中で、本当は我慢する必要がないのに、それが今の習慣あるいは制度だから仕方なく我慢しているようなことがあったとしたときに、不満を持つ気持ちを各々が抑え込んでいたら、いかに無駄な我慢であったとしても、それをひっくり返す活力が生まれません