以前、『「元気を出して」という励まし方は危ないのでは?』の中で、気分のリズムに逆らうと疲れるから、落ち込んでいるときは、落ち込んでいる気分の只中にありながら、その落ち込みを放っておけば良い、というようなことを書いたのですが、なんでわざわざそんなことを書いたのかといえば、他ならぬ自分自身が、この問題に苦しんでいたからな訳です。
自分の意思だとか思いがあり、その一方で、自らが全く関与できない領域に気分のリズムがあり、いくら自分の意思で立て直そうとしても、気分のリズムは私の与り知らないところで起こっている根源的なものであって、それゆえに力が強く、とても自分の意志などでは敵わない訳です。
そのことに気づき、
「気分のリズムには逆らわない方が良い」
と結論づけた訳ですが、驚いたのは、その、意思が気分のリズムにたいして、どうしようもなく対抗力がないということに全く苦しんでいない、いわば、
「気分のリズムと自らが一体になっている」
人が存在するという事実です。彼らは、
「気分のリズムにはどうも敵わないなあ・・・」
ということを、考えてすらいなかったのです。それが証拠に、明らかに不機嫌そうな様子が一日の中に何度も散見されるのにもかかわらず、
「訳もなく嫌な気分になることはない?」
と尋ねても、
「何のことかわからない」
との答えが返ってくるのです。一日の中に、不機嫌が自分に起こってきたことを認識していないのです。
なるほど、気分のリズムに対しようという意思などなく、既に気分のリズムと一体であるならば、気分のリズムを対象物のように観察することは不可能ですから、自らの不機嫌に気づかないとしてもそれは当然だと言えるでしょう。自らの与り知らないところに気分のリズムが流れているという理解は、気分のリズムと一体になっていれば得られませんから。
となると、『しっかりしてしまうのは気が小さいから』で、何故不機嫌な態度を平気でとれるのかという怒りを訴えて、反対に、私が不機嫌を表に出せないのは何故かということも同時に考えると、つまるところ私の気が小さいから不機嫌な態度を平気で取れないのだと結論し、さすれば、不機嫌な態度を平気で取れる人は気が大きいのだ、と言って結んだかと思うんですが、確かに、不機嫌な態度を取っても、気が大きいから平気だという側面はあるのかもしれませんが、それよりはむしろ、
「平気で不機嫌な態度を取れる人は、自らが不機嫌であることに気づいてすらいない」
というのがより正確だというような気がしてきました。そういう人には、
「本当は不機嫌な態度を取りたくないのに、気分が悪いのですいません・・・」
であるとか、
「気分が悪くてイライラするから、つい不機嫌になる、嫌だなあ・・・」
という感覚が無いのではないかと思います。何故ならその人達にとって、気分のリズムは自らの与り知らないところで流れているものではなく、自らと一体のものであるからで、気分のリズムを眺めて何かを思う自己が存在しないからです。