ごまかしは本当に必要だろうか?~『幸福とは』の続きとして~

 以前、『幸福とは』という文の中で、「幸福」というのは、

「根源的な虚無、絶望を一時的に忘れた状態のこと」

と書きまして、しかしながら「幸福」は、虚無の一時的な忘却と言えども、発狂しないためには必要なものであるということを書いて、結んだと思うのですが、確かに、「幸福」という一時のごまかしがおそらく必要だろうという思いに、今のところ変わりは無いのです。

 ただそれと同時に、本当にそのごまかしは必要だろうか、あるいは、ごまかしていたとしても、ついにはごまかしきれないところに至る、いや既にごまかせないところまで来ているのではないかという疑問が、頭をもたげてきているというのもまた、紛れもない事実な訳です。

 孫悟空が釈迦と対決するときに、結局は釈迦の手のひらから逃げおおせることが出来なかったという話がありますが、あの手のひらを、「根源的な虚無」、逃げられないものと見るならば、逃げている孫悟空が、

「俺は、あの手のひらから逃げることが出来ている」

という勘違いを持つことは、それでも重要なのでしょうか。しかし重要だとして、その一時のごまかしが何になるでしょうか。結局は、ごまかそうが、ごまかさなかろうが、釈迦の手のひらの中にある訳です。

 では一体、お前はどうしたいんだ。発狂するつもりか、と言われると、やはりそこは避けたい訳です。ただ、ごまかさずに虚無を見据えながら、その上発狂もせずに行く道は、あっても良いんじゃないか、それが可能であるということも考えられるんじゃないかということを、この場合は夢見ていると言って良いのかどうかはわかりかねますが、とにかくそういうことを夢想しているところなのです。

 そして今、「夢想」と書いたように、それは大変に難しい態度であるということも心得ているつもりではいます。根源的虚無を真正面から見据えながら、しかし一方で発狂はしないというのは、つまるところが悟りの境地みたいなものですから、果たして人間が悟りなどという境地に至れるのかどうかということに関して、非常に懐疑的な見方を持っているものですから、となると私が夢想しているのは、人間にとって到底不可能な境地に至ることなのではないかと考えて、やはり所々にごまかしを加えていくより他ないのか・・・と、半ば納得したような、なんとなく完全には納得しきれないような気持ちでいます・・・。