よくある、ひどい親のエピソードなどを目にして、
「こんな人、子どもを産む資格なんかないよ」
と憤っている人を見ると、
「なんだかひどい差別をしているな・・・」
と思う。その点私は、誰に対しても平等である。
「全ての人間は、人間を産める器ではない」
と思っている。
固有の意思を持ち、悩み、考え、喜び、惑いするひとりの人間を新たにこの世に産みだすという行為は完全に、一対の男女の手に余っている。善悪は置いておいて(そんなことを私は判定できない)、というよりは善悪という境地を越えて、そもそもが越権行為だと思っている。
「何故、私は生まれさせられたんだ」
という、新たに生まれてきた人間が持つ根源的問いを、包み込むだけの力を人間は持ち合わせていない。
それなのに多くの人は、越権行為ではないかという疑いすら持たない。何故なら、そんな資格なぞなくても、産むことは可能だからだ。ちょうど、資格がなかろうが、ある程度の年齢の子どもなら、物理的には車を運転できるのと同じように、一応産むことは可能だから、考える前にまず産んでしまうのだ。
「資格がある」
のと、
「物理的に出来る」
のとでは、まるで意味が異なる。そして、「その資格」は、いつまでも人間には備わらないと見ている。
こういう話をすれば、純粋な嫌悪はもとより、
「歴史的な流れを止めるのか」
という怒り、
「経済的な問題はどうするのだ」
という反論が向けられることもあるかもしれない。
しかし、それが何だと言うのだろう。新しい命を勝手に誕生させるという、(何度も言うが、善悪は置いておいても)とんでもない行為をしておきながら、さらにその上で、
「人類繁栄という目標のため」
あるいは、
「我々が貧困に陥らないための新たな駒」
として、新しい命を位置づけるエゴイズムの醜さよ、と私は思う。勝手に生まれさせられた上に、現人類のエゴの為に駒として扱われた人間の怒りを想像できないのだろうか。そこを無視して、やれ目出度いと騒ぐ無神経は、それで良いのだろうか。