<465>「零になる」

 鋭さ、あるいは軽さをどうにかしようとして、この分かりにくい停止を甘受している。鈍たいがままの運動というものを、立ち上げた方がよいだろう、と考えるときの頭は、確かに軽さであるのだが、制限されているものがなんともなくなるとすると、制限しているものの立場は、心境は? どうなるのだろう。尤も、そんなものはどうなったっていいと考えてもおそらく大した問題にはなるまい。

 空洞になることをいくらか残念なことのように語る人が居たそうな。どうにもあまりピンと来ない、賛同には至らない。全く無化されていくこと、また、己でそれに加担していくことはとても自然なことに思われるからだ。教えられてきたもののなかの何かなのか? そういう表情が貼ってある、ちょうど貼ってあるから見てみるが、別に驚くこともない。ああ、そうだろうな、と思うだけで、おそらく中を完全に眺めていると、ああいった表情を寄越すことになるはずだ。

<464>「あの穴へ」

 招かれざるものが、ほんの意識の遠のきを利用して、中空に浮いたその場所へと急ぐ。とっくにこの身体から離れたものたち(しかし、この身体から離れていったものたち)、そのなかで、点である私が今現在という名で動き回る。

 点に映る光景は、全て今現在との関連を持つもののように思われた(が、突入したということを忘れてはならない)。私が考えているほどの関係は、もうないのかもしれない。充分に放り出された後の景色であれば、当然意味は不明瞭なものとなるだろう。そこへ、毎度々々訪れていくのが、ただの暇つぶし、好奇心でないとしたらば? 今現在を、その一点から、私の身体という一点から注入するというのは何だろう・・・。つまり、何かを暗示する場である、とする人がいる。しかし、むしろ放り出された景色に、暗示的なものを逐一注入しているのだと言わなければならない。中空、その全体は、暗示などには無関心でいるのではないか。

<463>「ひとひの渦」

 愕然とするにはうってつけの場所だ。愕然とするには、うってつけの、その場所へ、私を連れていってくれ。連れていってくれたら、そこで次々に立ち現われる顔を壊していこう。

 話が、1日のうちに全て収まった。驚くべきことだ。目一杯右へ左へ、ふざけたり一生懸命だったりで動いてみよ、さすればそれらは1日のうちに収まるだろう! さあ、何てことだ!

 では、あなたが出たらどうなのです? しかし、何から。さあ、どうだか・・・。急な寂しさは一体何を砕くのです、何を、挫くのです? 答えたくはありません、答えが、ないのかもしれません。

 この渦のなかに飲まれて、ともかくも、見ていましょう。ゴウゴウ鳴る音は、その激しさの割に、急いているような感じを起こさせないのです。大変いろいろなもののなかのひとつになっていくようです。

<462>「悪の手触り」

 悪の最大の魅力は、それが本当らしく感じられる点にあるのではないか。悪に触れている(あるいはどっぷり浸かっている)のと、全くそういうところとは関係なくのほほんと暮らしているのとでは、前者の方が、より本当に近い、より真相に近い、と何故か考えさせられてしまっていて、そしてまた、そう考えさせるだけの何かしらの魅力が、悪にはあるのではないだろうか。

 実際は、のほほんと行われる生の領域も、悪にまみれた領域も、同じように本当であり、真実なのであって、どちらかが「より本当」であったり、一方が本当のものを欠いていたりすることはない、のだが、悪の領域に属する人はそれでも、のほほんと暮らしている人を見て、

「本当のことも知らないで・・・」

と、つい思ってしまう気持ちを抑えることが出来ないのではないだろうか。また、あまりにも自然にそういった感想が浮かんでしまうことについては・・・?

 どこへ行っても本当でないような気持ちがするのと、悪とはとても密接なのではないか。いや、それが根源なのか・・・? 重大な秘密とか、触れてはいけないとされているものに触れることで、「本当」の実感を得ている。しかし、のほほんとした世界が、決して嘘でも不完全でもないことを常に意識させられる・・・。

<461>「得体の知れないヒ」

 そんな経験などなかったのじゃないかといって驚いているようだが、経験は身体に任せておけば大丈夫だったようだ。徐々に何かを開いていくイメージでいるのかもしれないが、さあ、どうかな? こればっかりは分からない、というより、何かを開いていくために進んでいるのではないと思うのだ。ぐいと開かずに進むことは可能なのだろうか。

 得体の知れなさとして誕生し、得体の知れなさを育てるのは年月だ。奇妙な行動などではない。一体全体、何のためにこんなにも役割変更を繰り返してきたのだろうか。こちらを捉えているはずの眼球と、私の眼球とがぶつからないのも当然だ。僅かなズレだが、それでも明らかに別の場所を見ている。そのことに恐れをなす。視線自体が厳しいからではない。

 年月を重ね続けるというのは、一体何ということなのだろうか・・・。

<460>「夢のなかで人が絶える」

 惑いであるもの、その中心に、強かな私が映るはずもなかったが、その歩みという歩み、前進に次ぐ前進が、ひたすら全体として現れ、また、部分を掴みあぐねるなかで、混濁の中心に光るものは、滑らかな目。平たい、冷たい・・・。ああ、全身という固定が煩わしく、ただ、流れ、流れ、豊かに溢れるものたちの、あとで見る、またとない風景を・・・。

 緊張した視線の先にいて、素知らぬ穏やかさを匂わせる。だんだんに暖かくなり、夢となり、人が絶え、閑散とした空気にひとつの呼吸が触れ、何やらかや鳴るところ、ここで、膨らましやな後退、あくまで静かに、静やかに見ている、それが、動揺するものの願いとなる・・・。

<459>「分けること、分けないこと」

 何でもかでも分けていくのは愚かしい。だから、分けない、あれもこれも分けない。そして風景となり、風景として見、曖昧なバランス、揺れ、歩行を受け止める。それは難しいことではなく、少しく楽しいことではあるが、一方でどうして困難を感じるような気がするのだろう? 困難を感じるような気がするのはどうしてだ、というのも、現に何らの困難も存在しているように思えないからであって、もし仮に困難などというものが本当に存在するのだとすれば、それはどこにあるのかというと、

「ただたんに動いていく」

ということと、

「丁寧に丁寧に分けていきたい」

ということとのせめぎ合いのうちにあることになる。

 丁寧に分けていきたい、というのは頭の根源的な欲望であって、これを抑えるのはなかなかに難しいのだが、一方でただたんに動いていく運動も、それが単純な動きであるが故に、あらゆる領域に跨っているため、どこかにスッキリと分けてしまうことが出来ない。おおなるほど、ならばただたんに動いていくことを中心に据えよう、という思惑を、しっかり分けたいという気持ちの強さがぐぐと押し返していく、といった具合で。困難があるとすればこういうところだろうか。