<377>「好みの根の深さ」

 好みと、好みでないことがある、というのを忘れる訳ではないが、そういうものが入ると理屈が成り立たなくなるので意図的に外しておく。すると、好みか好みでないかというところに行き着いて、というより、そこにしか問題がなくなって、困るというほどでもないが、困ってしまう。

 理屈で言うと、穴がある、それも随分ある。無理やりにこじつけていたり、思い込みが多分に含まれていたり、というのが、分かり過ぎるほどに分かるが、理屈として通らないからといって何も感じないとは限らないところが難しいし、嫌だし不快だが、面白い。

 生き生きし出す予感とでも言うべきものは、存外馬鹿にならない。そうじゃなくてもいいし、そうでない人が駄目だという訳ではないことが分かっていても。というより、これは何かまた別の問題なのだ。放り出されて危ないとは言うものの、放り出されずにいるのもまた同じくらいに危ないのだから。

<376>「握る」

 自分から、考えは、想いは、感情は、奪われていなかった。では、決断は・・・? 誰に渡している? また、どうして渡している? 理屈ではどうにでもなることが分かり、どうとでも言えることが分かり、しかし、私にも生理感覚があり、何が何でも決断を他に譲ってはならないと言っていて、それは本当とか嘘とかのものでもない。手にしなきゃいけないものだというのが何故だか分かり、何から何まで合っていても何も驚かない。大事な部分は誰にも譲らないという、たったそれだけの話である。

<375>「どこに置く」

 バランスは油断によって崩れるのではなかった。バランスはどうやっても崩れる。それはリズムのようなもので、常に動いているものでありながら、同一であること、堅固であることを求められる理不尽さ、矛盾具合に、バランスを崩すという事象はつきものである。

 油断は、バランスを崩すという事象を自分の中でどう処理するか、というところにこそ関係してくる。といって、バランスを崩したことを軽視することが、必ずしも一大事を招び起こすことには繋がらず、軽視したが為に、バランスを崩したことが結局一大事にならなくて済んだ、ということもある。

 油断していた、というところに全ての問題の原因を集結させるのは確かに便利だ。しかし、油断は当たり前の、日常物だ。集中できる時間の方が圧倒的に短い。大半は油断状態にあるのに、そこにこそ全ての問題の原因があると言ってしまえば、ほとんど何も言っていないのと同じになってしまう。油断していても別に大丈夫なように設定するところから諸々は始まる。

<374>「静かな嘘になる」

 全ての私が嘘であって、どこに行っても嘘にしかならない。どういう訳か、偶然が作用してきて、良い方か悪い方なのかは分からない。言葉を強くしろ、そして態度も強く、それは確かな方策であるとさすがに認めた。ただ、それは嘘であることよりもつらいことだった。どうやら、良い方に作用したらしい、が、それを手柄にする瞬間を(私が、誰かが)、この目で、見てはいられないがやはり見ていた。

 お前が踏むな、と言わんばかり、地面はどこまでも平らで、現実からも、普段の呼吸からも浮いている。適当な休憩の場所という場所が揺らいで、気持ちから逃れ続ける。

<373>「このもとに触れ続けて」

 表情は変わらない。だが違うものであるためにその変化は必要がなく、全く知らない場所を用意されてなんだかなあと進んでいくと、見たことのある景色に戻ってきた安堵もない。

 安心の基礎になるものは・・・。そんなものは何もなくて、ぐるっとひと巡りしていると考えると、ほんの少し納得できるような気もしている。断絶がそこで準備された。尤も、何かの役を担っているという自覚こそないのだが。休みなく経巡り変わり続ける流れに対する拒否であればこそ、執着と呼ばれるのだったし、またそれだけのことはあった。ひとつの未練もない者を(そういうものがかつて存在したらしい)、確認した奴こそいなかった。ここまでは来ていたのだ、それも、誰かから聞いただけだが。

<372>「問う朝、明確な朝」

 遠慮しがちに歩く道は、別段険しい訳でもなければ、優しい訳でもない。目を伏せるだけよく道の先まで見えるというものだ。誰かが問う、彼らと問う。突然お前は笑い出す。具体的に回復が図られて、大袈裟に調子が良くなれば、なあんだと思ったのだ。

 ひょんなことから、道を見るのをやめている。それにしかも気がつかない。誰かが問う、彼らと問う。爆笑した後かと思われる静けさの中で、調子は率直に見られている。誰が遠慮するものか、してなるものか。余計な配慮というものが明確な朝になるのだ。

<371>「私は停止します」

 ある範囲内まで接近すれば、その人は必ず止まってしまうのだから、周りの人間は、その人が何もしない人なのだと考えた。また、そう考えるのが普通だったし、非協力的だと軽く不満を覚える人も少なくなかった。

 何故止まってしまうのかが分からないので、他者にも自身にも説明のしようがないのだったが、同じ性質を有する者は、もしや?と思うだけは思っていた。だが、全く違うかもしれない、ただただ非協力的であるだけかもしれない人に、突然のこの停止の感覚を説明して、

「あなたもそうなんですよね?」

などと言ってしまえば、多少困ったことになるのは私の方だろう。しかし思い切って説明してみたとして、上手いこと二人ともが、

「そうだ、そうなんだよ!」

となった場合、つまり同じ性質だということが二人の間で明らかになった場合、それは何かの解決になるだろうか。いや、解決にはならずとも、せめてもの安心ぐらいにはなるのだろうか。ただ途方に暮れる人と時間とが増えるだけだったら・・・?

 ひとりになれば何でもやるくせに、ちょっとした集まりに加わると何にもやらないで、ただ怠けているだけにしか見えないのだが、それは一種の停止状態に陥って呆けているだけなのだ、という馬鹿みたいな話があるのだった。それは特に準備や片付け、計画といったところに顕著に現れるのだったが。