<272>「身体が全て間違いになるまで生きる」

 時の経つにつれ、間違いの数は少なくなっていくのかもしれないが、既に犯した間違いは、自分の中で段々に濃くなっていく。間違いの数が今になって少なくなってきたことなどまるで関係のないほどに。

 何かに向かって人間が完成していくとするならば、それは間違いそのものに向かってなのだと言えるのではないか。新たな間違いなど全く犯さなくなったその日に間違いそのものとして完成するのだ、皮肉なことに。間違いそのものになることなど誰が望もう。自分は間違った、しかしそれを反省している自分もいる、という方法で慰めることが出来ず、そのものになってしまうことなど・・・。

 完成は拒絶される。しかし、疑いなく間違いは濃くなっていっている。私が反省しているように振る舞おうと、開き直ったかのように振る舞おうと、問答無用で濃さを増している。生まれたての部分が、徐々に見られなくなっていく。かつて間違いでなかったのだという証拠すら失った。後はひたすら、努力もなしに完成していく様を、寄り添いながら見ているしかない。完成を放棄する? そんな勇気があったら、こんなところでこうしてダラダラとはしていないはずだ。

<271>「自分の眼玉」

 本当の~は、などという限定のつけ方はケチなもので、あまり好きでないと、何度か書いたことがあると思うが、どうしてそういう限定をつけたがるかと言えば、自分があるものに対して抱くイメージ(人生とは、天才とは等々)と全く逆のイメージを抱いていてそれで良しとしているのが、どうにも我慢ならないからであろう。ならばそこで、逆のイメージを抱いているなんて我慢がならない、不快だ、と言ってしまえばいいのだが、そんな直接的なことは言えない。それをすると、あまりにも幼稚になってしまうからだ。

 じゃあどうするのかと言えば、逆のイメージを抱いている人は、本当のイメージに気づけていないという処理をすることになる。ただ、逆のイメージを偽物だとし、自分が抱くイメージを本当だとする根拠はどこにもない。そもそも、抱くイメージに、本当か偽物かという観念の入る隙間があるかどうかさえ怪しい。抱いてしまっている、どうしてもそういうものが浮かんでしまっている、このことは外からはどうしようもなく、正解とか不正解とかが出てこれる話でもないのだ。抱くイメージが、一体何の基準に照らしてなのかは分からないが、本当であってくれないと落ち着かないのは何故なのだろう。自分の目以外の視覚世界があるのは大変不安な、奇妙なことなのだろうか。それはそうには違いない。本当の~はと語ることは、自分の目玉だけに執着することなのかもしれない。

<270>「関係するのではなく関係を作るということ」

 結婚している人が高い評価を受けたり、恋人を作る、という言い方が当たり前に為されることの訳がようやく分かってきた。

 つまり、人間の頭数を揃えることが社会にとっては最重要事項なのであり(貧困や劣悪な環境などがあったとしても、人がいれば国は成り立つが、人がいなければ国もない、当たり前のことだが)、普段どんなことを考えていようが、何をしていようが、結婚した人は、それだけで社会の根本条件を強力に支援する側に回った(準備に入った)ことになるから、社会から熱烈に歓迎されるようになるのは当たり前のことなのだ。結婚しただけでそんなに評価が変わるのはおかしい、という文句は全く当たらない。

 また、己が好み、考えを、社会の要請に沿って曲げられるか、というのも大事なポイントになっていて、これは結婚もそうなのだが(好きなうちは一緒にいて、そうでなくなったらふらーっと自然に離れていく、なんてことを簡単には許さないような縛りをかけているのだから)、特に、恋人を作るという表現にそれはよく現れている。お互いがお互いを好きになったら、自然に近付いたり、またあるいは遠ざかったりするものなのだと私などは思っているのだが、どうも親に言われたことの受け売りなのか、本当に早い時期から社会の要請に馴染んでいたのかは分からないが、随分と小さい頃から、恋人を作るという物言いをして、何の不自然も感じていない人がいる。だって、恋人を作らないのはおかしいではないか、どうして作らないの? ・・・しかし、そう、恋人を作らないのはおかしいのだ、何故なら、そういった関係の取り結び方を勧めている社会にさっさと従わないからだ。恋人を作る、という考え方がそもそもおかしいと思っていたり、ただ好きだという気持ちだけで満足していたり、それではいけないのである。恋人は、作ってみなければならない。気乗りがしなくても、それほど好きになっていなくても、そもそも、その仕組み自体に疑問を感じていても、ひとり対ひとりという取り結び方に疑問を覚えていても、とりあえずそういった関係に入ってみなければいけない。何故なら、恋人を作るという経緯を踏むのは、社会が要請していることだからだ。

 社会の根本条件を承認しなさい(それも口で言うだけでなく、態度で示しなさい)、社会の要請に従って、己が考え、好み、行動を曲げなさい、それをやらない人、つまり結婚もしなければ、恋人を作りもしない人が、不審がられ、嫌がられ、社会から良い評価を受けられないのは当然なのである。社会というのは存続のためにこういったポジションを取らざるを得ないのであり、それに従わないのなら、ちょっとやそっとの低評価、軽蔑は覚悟していかなければいけない。

 

<269>「忘れられた家」

 忘れられた家がある。それは、胸の中の夜を通して、街灯をひとつ揺らした。浴場の匂いが、ほんのひととき、悪事をさらっていき、佇む群衆の中で静寂を振り返らせる。目的を失った今でもなお暖かく、陽気さが顔を出すのを待っていた。

 しかし、家は忘れられたのだ。忘れられた家は場所を取る。聞いていない話だ。素通りが日に日に煩く、嫌な想像をそのまま夢にする。勢いを増した太陽は遠ざけた視線のように強く光り、汗ばむ明かりと共に窓を揺らした。ボウと映り出て、開き方を忘れる玄関はどこまでも続く・・・。

<268>「草と根と」

 草木と私と、ただ在るというだけのことで、どうしてここまで明暗が分かれるのか。それはひとえに、忙しないからだ。出不精な存在のどこが忙しないのか、いやいや、草木と比べれば違いは明らかだ。自分のポジションというものが定まったら、絶対に動かない(動けないでもいいのだが。それはどちらでも実は同じことだ)。太く太く根を張っていって、動かまいとする。その決心の差で明暗が分かれている。

 また、季節を守ることも。繁る時節には繁り、枯れる時節には枯れてしまうのだ(意思ではないのかもしれないが)。枯れる時節に繁ったり、繁る時節に枯れてみたり、一喜一憂が、日々の営みの中で細かく刻まれ過ぎるところで明暗が決まる。

 どこに根を張るのか。いや、実はそんな場所もなければ、そもそも張る根すら持っていないのだったら・・・。ふらふらあたふたするように動くのが自然なのか。自然な歩き方をしている人は、存外怯えているように見えるのかもしれない。

<267>「余剰分も生まれては生きている」

 美しさでないものは深さを増した。萎れていくものの横で、色をも増やす。むろん、よりひとつの色が濃さを増しもしたのだった。美しさであるものの汚さを静かに見つめ、微かに笑いもしなかった。若いというのはどうにも頼りないことだった。身体がよく動くというのは、いくらか頼りない・・・。持っているものを充分に余して、その割にグッタリと疲れると、余していたものも同時に退散する。何のために余っていたのだろうか。それは、多分、余力を残すためではなかったのだ。つまり、余力を残してしまう、要らないものもとりあえず蓄えてしまうのだ。それでは、無意味に疲れるのも当たり前だった。遊びがあることは大事だが、それは、あれもこれも持つということではないのだろう。遊びがなければいけない。身体がそれを感じるようになるには、不可抗力の衰えを待つよりしょうがないのかもしれない・・・。

<266>「効用とかではないものは」

 効用がないもの、正確に言えば、「効用とかではないもの」について、支持したり、擁護に回ったりすることにはとてつもない難しさが付き纏うなあ、といつも思っている。

「どうしてそれが必要なのですか?」

「別になくてもいいのじゃないですか?」

という質問に滅法弱い。効用があるかないかの発想しかないのは少し寂しいことだとしても、確かに言われていることはその通りだからだ。弱すぎて逆に、効用とかではないものに対するこの手の質問は、もはやフェアではないとすら思っている。この質問に真正面から答えるとすると、効用とかではないものの効用を説かなければならなくなるからだ。これでは、最初から無理難題をふっかけられているようなものである。

 効用とかでないものは説明しない。というより、説明とは相容れない。何かを説こうとする行為自体が、効用(の意識)と直接に繋がっているからだ。説明しないものは、何で説明しないんですかという圧力に抗する術を持たない。術を持てば、即自分も効用に変化してしまい、矛盾になる。

 効用とかでないものを何とか守るためには、泣く泣くそれを効用に変化させて認めさせるしかないのだろうか。しかし、それはとても萎える運動である。もちろん矛盾でもある。こっちでは、効用とかでないものと、ちゃんと付き合う術を持っていたのに・・・。そうすると、なるたけ見つからないようにするのが一番ではあるのかもしれない。それでも万が一、

「それは必要なんですか?」

という質問に捕まってしまったら、その質問に正面からは答えず、そもそも、効用か否かだけで物事は全部分けられるのかどうか。効用がない、ではなく、効用とかではない領域も存在するのではないか、という話を展開するしかないだろう。尤も、それも結局は説明で、効用を説いていることにはなるのだが・・・。

 効用とかでないものは、そっとしておいてもらわない限り、とことんまで押されてしまうものである。そういう言わば宿命みたいなものを持っている。