<228>「時間が矛盾する」

 これをしたから当分大丈夫だ、ということは絶対にないのが難しさでありまた、異様な不思議さでもある。例えば、楽しみがあったり、何の不安もなかったり、ならば大丈夫だろうと自分も他人も思うのだが、ここにはどうにも繋がらないものがある。先に不安がないとか、あの日が楽しみであるなどということは、全く関係がないと言っては語弊があるが、今この瞬間のマズさというものと、確かな結びつきがあるとは言えない。

 瞬間的人間である、ということは、一瞬一瞬の短さの中に放り込まれているということだけを意味しない。それは、確かに切れている状況の中にあるということだ。全然ダメだな・・・と思いながら、この瞬間が周りからは全く隔絶されていることに、また、この瞬間を抜ければ、次からは嘘みたいに大丈夫な状態になることに、愉快なぐらいの違和感を覚えて、ダメの最中にふわりと浮く。それでどう抜け出るというものでもないのだが。次の瞬間には全然大丈夫だということと、次の瞬間には全然大丈夫だとかは今この瞬間には関係がないということとが両立するのは不可解ではないか。

<227>「不自然な立ち上がり方」

 評価をしようとすると、一旦自身の流れは止まり、何かをぐいと無理やりに拵え上げるような動きを身体がまた取り始める。この一連は何度経過しても、やはり不自然だと感じる。肯定している(否定じゃない)のに、何かいつも失敗した、余計なことをしたという気持ちになるのは、別段おかしなことではないのかもしれない。親しい雰囲気の中に在るとき、それをわざわざ肯定してみせる必要がない。そのとき嘘を言うのでなくて、心からの本当のことを言うのであっても、既に達成されている空気を止めて、改めてそれについて言及するという行為自体が、独特の嘘臭さ、白々しさを生み出してしまう。

 肯定だとか否定だとかの必要が己のうちに在るのではなく、肯定だとか否定だとかを示してみせる動きを様々なところで目にし、何となく自分も、評価というものをやってみなければ、いや、それをするのが言わば当たり前なんだと思い込んでいるだけなのかもしれない。いずれにしても、対象、状況に対して評価を加えるという動きが、不自然な、無理やりな動きであるという感覚は拭えない。

<226>「骨がありません」

 ここで例えば、ゆったりとした服を纏うと、骨がなくなる、というより、関節などが全てふわっとなったような感覚になり、いかようにも柔らかく動ける、腕なら腕全体が、緩やかな波を描けるようなものとして現れるのに対し(半袖だと厳しい)、身体のラインにピタリと沿ったような服、いわゆるパツパツの服を着ると、これが長袖であって腕の長さなどには違和感を覚えずにいられても、身体のゴツゴツとしている感じというのは、裸のときに感じているそれとさほど変わらないということになる。

 さながら脂肪の役割、実際の肉がつく訳ではないのだが、ゆったりとしたものを着ると、見た目的に柔らかくなるだけでなく、自身の感覚までもそうなる。ゴツゴツしたものの上に乗っていながら、ちっともゴツゴツしていないような感覚になる。これは不可解だ。そういえば、ゴツゴツさを隠さず、そういった骨や筋肉を、健康の証として人目に曝していることなどは別段変なことでも何でもないが、昔の、身分の高い人などが来ていたような服は、随分とゆったりしていることが多いような気がする。あれは骨を感じさせない為でもあるのだろうか・・・。

<225>「部分が大きい」

 次第に暑くなって来、半袖、半ズボンのような格好になるとよく思うのだが、胴体に対して、腕や足が長すぎるような感じがする。相対的に見て、背は高くないし、腕や足も、人より長いという感じでもないのだから奇妙だ。つまり主観だ。どうしようもなく長い感じ、そしてアンバランスさに戸惑う。もう少し短ければ扱いやすいだろうに、などと思う。

 これが例えば、長袖、長ズボンのような格好のときは、何とも思わない。身体がちょうど良いバランスで成り立っていると感じる。身体は別に、洋服でもってバランスが良くなるように設計されている訳でもないのだろうに。だが洋服が逆に、バランスをより良く見せていこうと努力している、ということはあるかもしれない。ということは、元々の身体のバランスがおかしいのではなく、バランスをより良く見せる術が、洋服側の方で進みすぎたということだろうか。裸になって、なんとなく、これが普段歩いているのはおかしいと感じるのは、変ではないか(感じてしまっているから仕方ないのだが)。それが根本なのだから。

<224>「肯定と否定とケチ」

 ただ放り出されているだけなのに、これは最低限しなきゃいけない、何かの為に生きなきゃいけない、それでないと価値がないと否定していくのはケチなやり方だ。放り出され、吸って吐いての運動を繰り返す存在は、他者からも自身からも近寄り難く、侵し難い、また侵してはならない深遠さを持つ、ということだけが大事で、それ以外に加わる限定(否定は限定することだ)は全てケチなものだ。何かを加える必要がない。

 それだけが大事だということはつまり、肯定もまたケチなものだということだ。これは疑問に思われるかもしれないが、肯定することにもやはり徒な限定がある。これはいい(たとい全部OKなんだと言うにしても)という表現が為される以上、その裏には、これはよくない、というものがくっつくから、それは結局否定的な限定になる、というだけのことでなく、ただ放り出されているものを、その全体にせよ部分にせよ、良いという形に嵌めること自体がもう余計な、ケチなことなのだ(否定に結局関係してくるからという理由ばかりでなくそれ自体でもということだ)。否定をすることは傲慢だ。さて一方、肯定をする段になって、良いこととされているはずなのに、いつも何かしらの居心地悪さ、気持ち悪さを感じてしまうのだがこれは何か・・・と思っていたが、そのケチさが自分でたまらなかったのだろう。

<223>「違う現実が少し来て」

 全然その人のそのことについてガッカリしたこともないし、むしろガッカリしたなどという感想を抱くことすら忘れていたぐらいなのに、その当人から、

「知ってると思うけど、俺本当こういうところが駄目でさあ・・・」

と言われてしまうと、途端にガッカリしてしまう、思い出したようにガッカリがやってきてしまうのは何故なのだろう。

 例えば、

「お前、そんなこと言うなよ」

と、わざわざ言ってきたという事実にガッカリしているというのなら分かる。だが、そうではなく(それだけではなく)て、こういうところが駄目だと言ってきた、その、駄目だという内容自体にガッカリしてしまっていたりするのだ。これはどういう訳だろうか。忘却の彼方に追いやれていたはずのものが、また引っ張り出されてきてしまっただけで、最初から本当はガッカリしていたのだ? いや、忘れてはいないし、忘れようと無理をしていた訳でもない。そういうところもあるということをちゃんと知っていた、知っていて、それを欠点だとかガッカリすることだとは思ってもみないでいた。しかも自然に。ただその部分は、改めて当人によって言及されると、何故だが急に、ガッカリするものへと変わってしまう。この間には何が起きているのだろうか。

「お前が欠点だと認識するのなら、そりゃ欠点だ」

ということなのか。しかし認識が、こちらとあちらで一致しなければいけない理由もないはずだ。

 どこかに誤魔化しがあるか。ガッカリすることでもないと最初から思っていたのなら、こういうところが駄目なんだと当人に言われても、そんなことはないよと返せるはずだ。返せなくなるということは、どこかガッカリしているようなところが前からあったのか? しかし、前述したように、ガッカリすることでもないのだと、無理に思い込もうとしていた訳ではないそう自然に、何てことはないと思えていたのだ(もしかしたら、そんなことをわざわざ思ってもみないぐらいに気にしていなかったかもしれない)。一体当人から言われることによって、何のスイッチが押されているのか。全く分からない・・・。

<222>「ケチな顔つき」

 規則がある。それを皆が守る、が、たまに、忘れているのかあえてなのか知らないのか、そこに守れていない人というのが現れる。そういうとき、さりげない注意が添えられればそれで済むのだが、そこに留まらず、何か楽しいことを見つけたように、そういった違反を捕まえて、執拗に批難を繰り返すようなことをしている人がいたとしたら、それはとてもケチなことだと思う。ケチなことは嫌いだ。それで、このケチなことであるというのが大事なのだが、ケチはつまるところ性質のようなものであって、だから、悪いことだとは言えないということだ。つまり、違反を見つけて指摘するのは理に適ったことである。誰がそれを間違っていること、悪いことだと言えようか? ただ、ぼんやりとしていればもちろんのこと、普通にしていたのなら気がつかないようなものまでをも執拗に見つめて気づき、規則違反をじくじくと(これを、直接当人に伝えないで、間接的にほのめかしたりしているのなら余計にタチが悪い)責める、違反にふと気がついたからサッと注意を添えるのではなく、違反が起こる前から、そういうことがありやしないかと、半ば楽しみながら待ち構えている、それは本当にケチなことだと思うだけだ。そしてそういうときの人間の顔を、私は見たくない。