‐昨日もここに座っていましたね。
‐ええ。
‐なにがあったんです。
‐いえ。特になにがあったという訳ではないんです。
‐そうですか。
‐強度。
‐はい?
‐強度について考えていました。それを得るためにどこかへゆこうとして、ためらい、また同じようにしてここで座っていたのです。
‐そうですか、強度ですか。
‐ええ。
‐強度は嫌いですか。
‐いえ。むしろ惹かれるのです。しかしそれに振り回されていてはいけない。
‐何故です?
‐強度のない日常が嘘と感じられるようになるからです。
‐日常は嘘ではありませんね。
‐そうです。日常を嘘だと感じている地点より先の道は、とても短いものになるでしょう。しかしそれではいけない。
‐まぁ、それはそうだと思いますが・・・。しかし、不思議ですね。あなたは普段から、道は先へ繋がっている必要はないと考えているのではなかったですか。
‐そうですね。しかしそれは個人の話です。全体のことを考えれば、強度を克服することは、道の延長のために必ずや大事なこととなってゆきます。
‐強度は嘘ですか。
‐強度も嘘ではありません。そのような現実もあり、避けられない場合もある、ということです。
‐しかし強度のない状態は、嘘なのではないかという感覚も、拭えないのですが・・・。
‐そうですね。それで本当に死んでしまう人もあります。
‐やはり、嘘だからでしょう?
‐嘘だと感じられるからだと思います。そこには微妙な違いがあるのではないでしょうか。
‐分かりませんね。
‐片側に、あるいはどこかに本当があり、そこ以外には嘘がある、という考え方には不備があると思います。
‐わたしはどうもそのように考えるところがあります。
‐むしろ片側には強度があり、もう片方ではそれがあまり感じられないと考えた方が実際に近いのではないでしょうか。
‐それでは、本当へ向かって突入するのでないにしても、強度を求めることは間違っていないのではないでしょうか、それを日常にしてしまうことも。
‐間違っていないと思います。何故なら本当か嘘かを判断することは出来ないからです。というよりも、本当/嘘という価値尺度を持ち込んでしまったことに無理があります。人間はただの生き物です。
‐ならそれでいけないというのは何故です?
‐とても短くなるからです。
‐短いと悪いのでしょうか?
‐分かりません。