<419>「演目の長さ」

 延々とではないにしても、ある程度の連続した、まとまった時間、観客であるということ、そういう役割を受け容れられるということには、ちょっと尋常ではないところがある。そこで展開されるものがマズイ訳ではない、ただ、もう30分もしないうちにその固定を放り出したくなっていることに気づいた。それ以降は、そこで展開されているものがどれだけ素晴らしかろうが、ただただ我慢である。ここで立ち上がっては失礼になるという常識が、その分のお金を払っているのだからという損得勘定が、そこに私をとどまらせる役割をただ果たしているだけである。困った、これは困った。私だけがそうであれば、別にひとりで困っていればいいだけの話で、また、そういうものに出向かないようにすればいいだけの話で、しかし、私だけの話ではなく、一般的に言って、観客の役割というのは主に我慢によって成り立っているのだとしたら、どうなるだろう。どうということもないさ、というのは楽観的過ぎたりはしないのか・・・。

 思えば、教室での授業、映画館で見る映画なども、そうだった・・・のか? 棄権として、居眠りがあったりする。ほぼ完璧に能動性を奪われてしまう時間、それでもいくらか耐えられるとして、しかしせいぜいそれは15分程度なのではないか(90分も授業を聴いているなんて、何かがおかしくはないだろうか)。

 何かを演じる立場に回ったとして、それを目当てに来た人達すら、実情は、定められた時間の大半を、習慣の力に助けられながら何とか我慢しているのだとしたら・・・。それはおそろしいことなのではないか。自分がそれを我慢と感じているだけならいいが、と思う・・・。