<406>「弁明と弁明」

 もし悪人が、己の悪さ加減について弁明する機会を永遠に奪われるようなことになったとして、それは良心に責め苛まれている状態なんかよりも遥かにきつい状態に陥ったことを意味するだろう。自分が悪いという事実を、自慢風にであれ反省風にであれ、まるで語れないとなると、これは相当なしんどさになる。

 それは、悪というものをひとり内に抱えることの難しさから来るのだと思っていたが、まあそれは確かにそうだとして、しかしただ、そのしんどさは悪に特有のものという訳でもなく、立場という立場全部に言えることなのだという気がしてきた。望んでいない立場に甘んじている場合はもちろんのこと、望んでいる立場に立てているときや、別段可もなく不可もなくの立場に立っているときでも、そこでは一切の弁明が禁止されているとなると、きっとその場に立って耐えてはいられないだろうと思う。

 傍らに、常にと言ってもいいほど、あらゆることについて弁明を繰り返し続けている人がいたとする、すると、そのときこちらが感じる苦しさというのは、その言い訳を延々と聞かせられ続ける苦しさというよりは、その人が常に弁明をしていなければならないほど苦しい状態に追い込まれているというのがダイレクトに伝わってくる苦しさだと言える。