<110>「不決定という構え方は」

 不決定は姿勢、態度ではない、いや、態度ではあり得ない、だから困るというか難しいのだが、不決定でいようとすればそれは即決定になる、不決定でいようと決定してしまう、それは不決定ではない。であるから懐疑派というのも変な表現だ。

「果たしてそうであろうか、そうでないのだろうか、そんなことが分かるのか?」

こういうようにして問おうと最初から決めているのと、結果的にそうなってしまうのとでは大分隔たりがある、懐疑を固定姿勢として初めから据えてしまうのは懐疑でも何でもないような気がする、揺れていないのだ。すると、何でもかでも決定してしまえばいいか、そういう訳ではない、とても決定できないような事柄はいくらも、本当にいくらもあるのであって、ただ不決定というのは、どうしても決められそうにない→しかしどうにかして決める道筋を見つけることは出来ないだろうか→う~んしかしどうも決められそうにないな→いや、ちょっと待てよ・・・という堂々巡りの背後に、ぼやーっと浮かび上がっては消え、浮かび上がっては消え、という形で明滅しているものなのではないかということだ。姿勢や態度というのはそれ自体に決定を含むような気がして、とすると、不決定という態度、などという表現はひとつの矛盾に逢着しているようにも思える。