内容物が何もない

 調子が悪いときならいざ知らず、身体の調子が良いときは、まるで臓物の重さというものを感じない。何だか自分が、空っぽの容器として存在しているのではないかと錯覚するほどだ。

 以前、『浅い部分で受け容れないところから』というものを書いたが、肉体感覚として空っぽに感じられるところからも、死というものの実感を得られない理由が導けるやもしれない。

 やはり、肉体感覚としての実感がある程度生まれてくるまでは、死というものを、観念の上だけでなく捉えるのは難しいのかもしれない。大病の経験が後々物凄く活きてくるというのはつまりそういうことなのかもしれない。そういうことでも起こらない限り、まだまだ私にとって、死とは事実足り得ないだろう。