以前、『死が、無いことになっている』というものを書いたが、本当は「今」訪れる死というものを、どこか遠く、「先」の地点にあると想定しないと、あらゆる決め事がおじゃんになってしまい、まともに社会が動かなくなりかねないので、とりあえず死を無いことにして、今の生を考えていくというのも、ある意味仕方のないことではある。
ただ、現実は、死が無いことにはならず、常に「今」に存在していることを考え合わせると、
「老人になれば、死への恐怖はいくらか薄れる。少なくも、若年のときに比べて、死を納得できるようになる」
という、死の地点を「先」に想定した曖昧な考えみたいなものは、いとも簡単に破られるのだということを思わざるを得ない。
怖さが、薄れるはずがない。納得出来るはずがない。肉体が、容赦なくその役目を終える方向へと動いているという実感だけでは、何の納得感ももたらさないのではないか。歳を取れば、自然に死は怖くなくなるという根拠のない安心を、自分はどこから持ってきた。