過去、時間もあったし、やろうと思えばやれたけれども、わざわざそれをやってみはしなかったことは皆、後悔の種となりうる。
そして、もう先がいくらも無いという歳になると、それらの種は、甘美な思いを味わうためだけにことごとく育てられ、花を咲かせられるようになる。
「ああ・・・若いときにあれをやっておけばよかったなあ・・・」
と後悔の言葉を口走る先輩たちに、心からの苦悶の表情は見留められず、むしろ恍惚が浮かんでいることに、あなたは容易に気がつくだろう。甘美と後悔とは、私には同義語にしか見えない。本当に痛恨の思いを抱いた事柄だと、こっちが忘れようとしているにもかかわらず、突然背筋をゾクッとさせられるような形で何度も何度も強制的に思い出させられるだけで、継ぐべき言葉も見つけられないので、
「ああ・・・あれをしていれば・・・」
とか、
「あれをしていなければ」
などの呟きが始まった時点で、それはもう痛恨とは程遠いものになったと言える。
死の間際の人物が残した様々の後悔の言葉を分析して、今我々がしなければならないことを判断する参考にしよう、という試みが為されている本などがあるが、後悔と甘美とは表裏一体だということはどこまで考えられているだろうか。(むろんそんなことは不可能だが)先輩たちの言葉を参考にして、ひとつの後悔の種も残さないように生を営み、ついに死の間際に至るまで一片の後悔も残すことなく辿り着いた人物はきっと、
「ああ・・・後悔の種をひとつでも良いから残しておくべきだった・・・」
と嘆くことだろう。