遊びについて度々の記述を重ねてきたが、私が、
「遊び」
と言うときに思い描いているのは、
「かけっこやかくれんぼ」
といった具体的な遊び方ではなく、
「余裕やゆとり」
の方であるということは、もう説明するまでもないことであろうか。
ただ、だからと言って、具体的な遊び方のことを軽視している訳ではなく、身体にゆとり、余裕を持ち、自由度を上げ、原初の、
「遊びそのもの」
への状態へと近づいていければ、具体的な遊び方などは、後からいくらでもついてくるのではないかと考えているのだ。
なので、私が、
「遊び」
について考えていこうとするときに、まずどうしても土台としての、
「身体のゆとり、余裕」
の方へと目が向いていくことも、自然なことなのではないかと思っている。
逆に言えば、身体のゆとり、余裕の問題を考えずして、具体的な遊び方をまず先に追い求めていくことは、遊びについての考えの充実を生まないであろうとも考えている。