以前、『「捉えた」と思ったのなら、それは捉えられていない』で書いたことに通ずるのだが、
「無心の状態を目指していく」
という道があることはそれとして、思い返せば(それこそ無心の只中なので、あまり詳しくは思い返せないのだが)、もともと幼児期には無心、あるいは無心に近い状態を達成できており、衒いもそれほどなかったはずであるのに、何故わざわざ、
「無心あるのち、迷いが生まれ衒いが生まれ、またそれを無くしていくために尽力する」
という遠回りをさせられるように、人というのは出来ているのだろうか。
矛盾するようだが、
「意識した無意識状態の達成」
でないと、無心が身についたことにならないのであれば、幼児期に自然に達成せられていた状態を一度破ることというのは遠回りではないと言えるのかもしれない。
しかし、
「無心になる」
「衒いを無くす」
ということそれ自体が、既に意識であり衒いであるのに、その訓練過程を経なければ無心の達成がないというのは何というか、
「どうしてこうも複雑にしてくれたか」
という嘆きのひとつも落としたくなる。