「許されない」という語法から滲みだす欺瞞

 『そんなことを言って(あるいはやって)許されるはずがない』

法律で禁止されている訳でもない言動や行動を掴まえて、

「許されない」

などという語法が使用されることがあるが、一体誰に許されないというのだろう。実体の摑めない世間にか、大衆にか。 

 私は、こういった語法が嫌いだ。自分が気に食わないだけなのに他人を持ちだすその醜さが。ただの個人の怒りなのに、許されないということが客観的な事実であるかのように語るその欺瞞が。ひとりで怒ることも出来ずに数で威圧しようとするその卑劣さが。

 「こういう奴が気に食わない」

と思えば、正直にそう言えば良いし、せめて、

「私は許せない、許さない」

と語れば良いものを、

「そんなものは許されない、許されるはずがない」

などと言って、

「私もそうだけど、世間さまも許さないと思うよ」

という体を取るその醜さが、私は大嫌いなのだ。

 許せないならひとりで許せないと思っていれば良いし、気に食わないならひとりで気に食わないと、存分に思っていればいいのである。それは(社会的に良い悪いはさておき)正当な怒りだ。ただ、

「そんなことをして、許されるわけがないよ」

という、自己の主観的な怒りに他人を持ちだすその醜さだけには虫唾が走るのだ。