反対しているのではない 「とんでもない行為だ」という意識の希薄さが怖いのだ

 子どもが産まれてみて初めて、親の苦労というものが分かり、

「親はこんな大変な経験をしていたのか。気がつかなかったよ。文句も言わずに育ててくれてありがとうね。」

と、娘ないしは息子が感謝の言葉を述べる。それに対して親も、

「親の大変さが分かってくれたなら、それだけで充分だ。」

と返す。

 一見、全くの曇りもない美しい光景のように見えて、この状況には、ある重大な、とんでもない事実が隠れている。それは、

「何も知らない赤ん坊が、苦しい世の中に、望んでもいないのに勝手に産まれさせられた。」

という事実だ。このとんでもない事実を半ば無視したところで、親子に拠る、

「親の苦労体験の共有」

ということが起こっている。この体験の共有をする上で、いきなり赤ん坊が置かれることになった厳しい状況というのは、無いものとして無視されている。

 親が、一人の子を育てるのに多大な苦労を要するということは、紛れもない事実だとは思うが、

「一つの命を、苦しい世の中に、人間の意志でもって誕生させるという行為は、善悪の判断は脇に置くとしても、とんでもない行為である」

ということに変わりは無い。

 私自身は、

「何故人間は、理性というものがありながら、人を勝手に誕生させるという行為はとんでもないものだとハッキリ自覚せず、これだけの出生を繰り返してきたのか」

ということを疑問に思い続けているので、種の保存に対しては否定的だが、それでも、世の中の人が、種の保存を繰り返すことを否定はしない。自らが勝手に否定的な見解を持っているだけだし、安易に「種の保存」が善か悪かを決めることは出来ないと思っている。

 しかし、

「善悪の判断は容易に出来ないけれども、子を産むということは、とにかくとんでもないことだ」

という意識が希薄なのは、あまりにも怖いのだ。

「とんでもないことをしている」

という意識のない親の下に産まれた子どものことを思うと、ゾッとする。

「子どもを育てるのは、つらい。手間がかかる。大変だ。」

全くその通りだろう。しかし、それは、一人の人間を勝手に誕生させるということの重みに比べれば何であろうか。

 もし、

「とんでもない行為だ」

という認識、

「今とんでもないことをしようとしているが、それも全て受け入れる」

という覚悟がないのならば、子どもは産まないというのが、本当の意味で「我が子」の為であると、私は思う。産まれてしまってからが子どもなのではない。既に子どもは、自らの中に存在するのだ。「我が子」の為を思うならば、何が最善か。実際に命を宿してしまってから考えるのでは遅い。