嘲笑それ自体が、あまり気分の良いものではない

 自らの趣味嗜好があって、それらを楽しむことに、非常に満足を覚えているのは確かなのだけれども、ひとたびその趣味嗜好を他人に嘲笑されると、何だか自分でもその趣味嗜好を持っていることについて自信が無くなってしまい、

「こんな風に思うってことは、もしかして自分も、そんなにこの趣味を楽しんでいないのかもしれない・・・」

などと思ってしまうことがあります。

 しかし、だからといってその後、それらの趣味を放り出してしまうかといえば決してそんなことはなく、いつぞやに他人から嘲笑を受けたことなどすっかり忘れて、また熱中しているというのが常なのです。

 そう考えてみると、どうやら自分はそれらの趣味を楽しんでいないという訳ではなく、本当に好きで楽しんでいるらしいということは分かりました。

 では何故、他人から嘲笑を受けたときに、ある種の後ろめたさのような、言葉にしづらい変な感情を覚えてしまうのでしょうか。おそらくそれは、自分がその趣味を本当に好きなのか、はたまたそうでないのかということとは関係なく、嘲笑それ自体に、何か嫌な気持ちを起こさせる力があるからだと思います。

 以前、『「泣くなよ」という言葉の見事さ』で書いたことにも繋がるのですが、事実と照らして嘲笑の内容が正確である必要はなく、全く的外れなものであっても、嘲笑はそれなりに相手にダメージを負わせることが出来ると言いますか、

「もしかして・・・」

と、相手の中の自信みたいなものを揺るがすことのできる力が嘲笑それ自体にはあるのだと思います。

 ですから、『「嘲笑」と「困る」は表裏一体』で書いたように、何かにつけて困っている人は、困っている原因となっているものに対して、嘲笑を投げかけるのでしょう。それが何よりも相手の動揺を生むのだということを、よく心得ているからです。

 また、嘲笑を受ける度に動揺してしまうのは、あまり心持が良いものでもないですから、なんとか動揺しないようにしたいと思うことも今までにいくらかあったのですが、嘲笑というのはつまるところ、相手を軽んじている訳ですから、人間としての誇りみたいなものを少しでも持っていれば、軽んじられたことに対して動揺するのは当たり前だ、と思うようになり、今は、

「嘲笑されたら、どんどん動揺すれば良いんだ」

と半ば開き直っています。