利己的とは言うが、己の利を図れない人間が他者に貢献できるのか

 利己的な人間、俗に言う、

「ジコチュー」

などもこの類に含まれるかもしれませんが、あまり良い印象を持たれない表現であると言えるでしょう。

 どちらかと言えば、「利他の精神」の方が、世間では喜ばれる表現なのではないでしょうか。しかし私はこの、「利他の精神」を、「利己的」な姿勢よりも遥かに良いものだとする風潮にはいささか疑問を感じるのです。

 というのも、もちろん、「利他の精神」がダメだと言いたい訳ではなく、己の利を図ることの何が問題なのか、ということを思うからなのです。人間が、自分に利があるように行動するのはとても自然なことではないでしょうか。

 それでもし、お互いの利己的行動がどこかでぶつかったならば、そこで新しい事も考えるし、折り合いをつける方向で努力するという展開も生まれてくる訳です。初めから自己を抑えて、利他に徹していれば、風通しは確かに良いのかもしれませんが、そこからは何の考えも生まれないですし、もしかしたら利他を考えすぎて、各々が必要以上に我慢しているという状態になっている危険性も考えられるのです。

 また、「利他の精神」も、結局は自己の状態が豊かでなければ出てこない姿勢だと思うので(自分が大変なときには、他の人を気遣うどころではありませんから)、まず何はともあれ、自らの利を図らなければ、「利他の精神」に至ることすら出来ないのではないかと思います。

 それに、厳密に見ていけば、「利他の精神」も、

「自分がその境地に至ることが出来て、非常に満足を感じている」

という側面がありますから、つまるところが「利己的」な精神であるとも言えるのです。

 それなのに何故ここまで「利己的」であることが嫌がられているのでしょう。まず自分の利を図るところから始めるより他に仕方ないと思うのですが・・・。