<593>「呆れた無限定の巣で、そこに住んでいる」

 一度や二度ではないって、大胆なことを言うではないか。大体が、放り出されたそばから瞳を柔軟に捉えて、べちょっとそのままになる。ひとっつも思い出と呼んで差支えないのだから。

「ちぇっ。本当のことを丁寧に説明すればいいと思ってやがる」

飴玉は苦みに溶かされた。全て風景とまた別になればいいと願っていた。

「手前さんのその奔放はね、それはね、拒否かい?」

「さあさあ、拒否が入っていないとは言わないよ。しかしそれで動く訳じゃあない。どうしたって私とあなたじゃ不成立じゃないかという、ただの感覚の、率直な表明なんだよ」

偉そうに。随分と細々いろいろのものを持っていて、それでいて分かんないんだか分かるだかのにんまりした時間を次々にぶち破っていってやるんだ。だってそうだろう。多分ここは、呆れた無限定の巣で、そこに住んでいる。力んだり落ち込んだりしないのなら気持ち悪いと言われて育ちゃあ、それでいいのさ。経験が回転をその奮闘作業のなかから救ってゆく。好都合で不満なのさ今日の水の音。

<592>「次々にこぼれて」

 裂けているのだから見るでしょう? 裂けているんですよ、あなた。誰が見たって同じことなのかもしれないけれど、ちょっと奥へ向かえばこうなのだと教えられたような・・・。

「ちょっと、ちょっと。あなたの中身はそんなんじゃありませんよ」

え・・・。あ、本当だ。このまま眺めているうち、そうか勝手に整えられたものだと思っていたよという声が、尋常な溜め息とともにズルズル、ズルズルと全体へ滑ってくる。何よりも確かな光景だから、その他一切のものが何らのためらいもなく過ぎてゆく。おい、どうしたい、これじゃあんまり無力だとでも言うのかい。だってそうだろう。あまりにその繰り返しの運びが激しい。これで落着いている方が難しい。音を立てて四方八方散りぢりになってゆくイメージが鮮やかに眼球を襲っていて、取るべき動作がないので徒にぐいっと方々を食いしばる。

<591>「隔たる眼」

 やさしい目。長々と見られながらこの間回転と、その方法。特別この待ち合わせを、唐突に用意した訳でもない。だが、訪ねる人は皆、用件が急に生まれてしまったかのような顔をして、こちらをうかがいながら足早に過ぎ去ってゆく。

 あれ、これは、あなたが閉じ過ぎているのかな? それとも、その判断は明らかに正しいから、それで私も他の人も怒っているのだろうか。多分、ここいら辺の扱い方がまるで分からず、遠いものだと決められてしまって、また眼差しがそういうものへ変わったのをよく憶えている。

 見えづらいものだ。その見えづらさのほとんどが、私であること、そんなことは認めたくないのだ。だが、よく分かるのではないか。露骨に開いているもの、それさえも、やはり閉じてしまえば、さらに疑いと惑いとを濃くしていく。良い方法かどうか、それは私も知らない。

<590>「水が流れるように」

 なるほど得意な速さでそここの頑丈さを欺こうとするその意思が、意思と再び約束されたひとときの空白が現れてくる。何度ぼんやり思って何度ぼんやり思ったところでここから何が分かってくるのだろうと思ったことだろうか。ただそのままであるということに意識的であること、そのままは嫌で違うものをつけたりまた意図的に見なくなったりすること、そのどちらもが結局は同じ絵を描くのに協力している。

 いい加減さは一体誰の何を助けるのだろう。大人しさもまた時折強烈に翻るための準備をしている。奇妙な名をそこへつけたら私はひとつ枠組みになってみるのです。むろんそんなことを承知していたかしていないか、知ったところでいまひとつどういったリアクションも取れず、困らされるだけだ。

 ひととおりの話を聞いてなお何も分からないのだから試みに別の動きを用意してみる。

「あなたがたがおっしゃっていたのはこのことですか!」

という声を傍らで聞き、どうやらものを考えることは瞬間的な速さのち我慢だぞ、なぞということをぽつぽつ浮かび上がらせてみる。

 興味でも無関心でもないあの時間を確かめて、ああとホッとするのか、いや、

「ああ、確かにあるようです」

という考えに沈んだりまた混ざったりしていくだけの、ただの表情というものになっているのだろう名づけるとしたらそう名づけるしかない。名づけられたところで、何が安定するでもなく、不確かな場面というものが映像の大半を占めているのだろうなとなんとなく思ってみるばかりである。

<589>「血液がまず起きて来た」

 いつもと違って静かな音だった。どうしたのだろう。止まって考えないでもないが、やはり親しい事と、どうしようもなくバラバラになる事がセットだと言うのだ。

「そんなはずはないでしょう。もう一度よく確認してもらえませんか」

何を確認したらいいのかがよく分かっていないので曖昧に返事をしいしい、さがっていくどこまでも背景にさがっていく。話さねばならないことがあるようなフリをして多め多めにまた言葉を用意して、ニヤニヤ、ニヤニヤと笑っている。

「大体のことは分かりました。大体のことは分かりましたが、徒労という概念とは無縁だというお話は、ハッタリですか実感なのですか?」

どう言おう。ただ血液の動きが明るさを用意したりしなかったりするのだなどということを、ここで話すべきであろうか。もちろん、何か禁じねばならぬものがある訳ではなかったのだが、禁止はしかし増えていった。一体これだけ禁止が増えていくということは何なのだろう。スタートしちまったというのが大体のところではないのか。すると、禁止が全くないという訳にもいかず、

「スタートしちまったらどこまでもゆきやすいよ」

と一言言ってくれる人が必要になるのかもしれない。そういう性質を持っているのだから気をつけるに越したことはないということを。

 だんまりを決め込んだ。またあとで話すためではない(またあとで話すにしても)。今ここに言語的な何かを足すのは間違いだという瞬間が必ずあって、私はそれに捕まえられたのか、あるいは捕まえたかしているのであった。全面的に分けてゆこうよ、というテーブルにはつかないのだ。

<588>「僅かに」

 そこここが、謎めいて見えるというがそれは君が承知したからではないのか。徐々に覆いとその量と、懸命な交代とが丁寧に笑みを作っていくぞ、いいか。悪いかそうでないかと問題を充分に広げて見てあたま。こんがらがればそれだけ普通の一連をちょくちょく驚くことになる。承知されていた。何故私に話しかけられることどもがここまで承知されていたのかは分からなかったが、とにかく案内はここだ。奮闘もここだ。休憩は、ここなのか・・・?

 大人しく見よと言われてそのまま大人しく見るぐらいになって、事実このまま想定して間違うのにもかかわらず飽きていた。何に。想定した内容にではなく、想定する頭があるということに飽きてしまうのだ。つまりどの道を通る。とりあえず行ってみてしまうという道を。何にも運ばないと思っていたものこそが想定外の力を発揮するならばきっと。順番に見せるものが偶然ではあり得ないだけに、ひとりまた確証のないところへ熱を込めている。なかなかどうしてこれはただの人だというのが分かるとき、言葉が順調に流れて分からなくなる。一旦眠ってしまう方が良さそうだ。ひとりで? そうひとりで。微妙に違うから微妙に違い続けるからちょこちょこと細かくまた調整し続けていなければならないがその動きを取り上げられればそれはそれで微調整には微調整の言い分が、あったということなのだろう。これは筋肉の必要でもある。誰の必要かと言われればそれは分からないが何度か動いているうち次第々々におんなじであることをやめてしまうのかどうか。一度たりとも変わったことがないと思いつつ、

「いやいやすみません、さっきと同じようにはもう出来ないですよ」

と当たり前に言っていたりする。しかしそれでなければ楽しくないのだ。皆それを分かっているからやはりまたここへ集まるのだ。集まるだけの調整が必要だ誰に頼まれたのでもない調整が。ひたすら馬鹿げたことを言うだけのごく尋常な考えにあなたもあなたもあなたもが協力している。特にこの点だけは何度も確認されて構わない。

<587>「揺らぐ人、新しい色」

 気をつけていればまた、内緒を用意されかねない。お前が触れたものがここでまた、ヌブとまた、落着いていかれるのだという大号令をかけている。自在、自在らしい、自在らしくあるもの。

「これがあればね、何でも出来るんだよ」

「そうなのね。しかし、それじゃ勿体なくないかしら・・・」

何が勿体ないのかはよく分からなかったが、それはもっともだと思われたのだし、それを受けて黙ってしまうのもそれはそれでおかしかった。

 枠というものがここへハッキリと出ているというのではなく、いきなり始まってしまった映像のように大体ここいら辺を違う色で染めている。それについての言葉がないことを嘆く行列を見て、笑ったり、ちょっと無表情になったりを繰り返してみたりして。この人が何故一語でなければいけない。疑問はここで終わっているのか。なんだかんだといって安心や答えになってしまった顔をよく把握出来ていないことに気がつく。

「あなたのどこを探してもどうして確信がないのでしょうね。そんな人からは離れさせていただきます」

時折不安に襲われたり、迷ったりするのでは足りなくて、全体が揺らぎになっている人でなければ信用出来なくなってしまったのだろうが、それがそれとして大体がそんなことでは困るという態度であってもそこはボンヤリしているしかないではないか。