<12>「不遜な人間」

 間違いない、終わった、危機だ。どんと胸を押されて後ろに投げ出され、スローモーションのように漂い、数多の事物が前へ前へどんどんと流れ去っていくような心持ち。しかし、どこに追い込まれたと言うのか? 危機はどこにある? 終わったように感じている中、事象が穏やかに流れていっていることを確認し、追い込まれる原因になる何物も実はなかったことに気づいて元気を取り戻し、ぶわあっと車内に戻ってくる。しかし、本を正せば、何もなかったこと、追い込まれる原因となるような具体的な事柄がなかったまさにそのことによって、終わったと感じていたのだった。

 滑稽であろう滑稽であろう滑稽であることに間違いはない。同じ原因によって、快活になったり塞ぎ込んだりしているのだ。何をやっているんだと思うだろう。それは私も思う。だが、それは扉の開け閉めのようなもので、こっちから見れば押している動きのものも、あっちから見れば引いている動きであり、しかし扉の動き自体は同じであるように、同じ動きが違う感情を惹き起こすことは不思議でも何でもないことなのだ。波はこっちから見ている分には向かってくるが、あっちから見ている分には遠ざかって、いや、もう例えはいい。

 同じ扉を開けたり閉めたり、馬鹿みたいだろう。では、やめてしまえばいいか、やるのは義務ではないのだし、やめてしまおう。しかしやめれば、行き渡るはずのものが行き渡らなくなり、次第にきゅうっと締められていくだけなのだ。開けっ放しにしていたり、閉めっ放しにしていたりすることは出来ない(循環の為には)。

 普通は、いや大方、その開閉は、何か他のことを為すときに一緒になって背後でこっそりと為され、意識されることもないままひっそりと重大な部分を支えているものなのだが、お前は、そういう表面的な他のことを全て虚しいと感じ、開閉そのものを直接見たい、いや、見てやろう、そこ以外は見ない、そこだけからは目を逸らさずにいよう、と決め込んでいるんだ。そういうのを不遜って言うんだ。それは不遜だ。