思い出すことが難しくなったりするだけで、人は、全ての出来事をきちんと記憶している、という話を聞いたことがある。
なるほど、もうとっくに忘れていると思っていたことを、あるときいきなり鮮明に思い出したりすることがあるから、その話も尤もなんだと思えてくる。
ただ、そういうときに思い出す事柄といえば、日常の中の非日常的な出来事、あるいは非日常という程ではない些細なものであっても、
「今日はこんなことがあったなあ・・・」
と、その日の終わりには確実に振り返っていたであろう出来事ばかりなのだが、いわゆる、日常中の日常的な出来事はあまり思い出すことがないのはどうしてなのだろう。
例えば、
「机の前で何を書こうかと考えて、少し行き詰ったので一旦止して、台所に水を飲みに行く」
などの一連の動作は、ここのところの積み重ねでもう百遍も千遍も繰り返しているはずだが、その動作の過去の模様が、一度たりとて私の頭の中で再生されることがないのはどういう訳だろうか。
あまりにも場所、そして動作内容が以前のそれと重なりすぎている場合は、思い出そうにも思い出しようがないのだろうか。
もちろん、冒頭の説を信じるならば、思い出しにくいからと言って、それら何遍もの繰り返しの映像は、どれひとつとして失われた訳ではないということになる。あまりに味気ないから意識に上らないだけなのだろうと思うが、それらは摑むことの困難な地平で、どのようにまとまって、あるいはばらばらに映っているのかが気になる。
大体同じだけれども、細かく見ていくとひとつひとつの挙動が違う些細な繰り返しの映像が、私の頭の中を次々によぎったら、大変だろうけれども圧巻なのだろうな、ということをぼんやりと考えている。