人は、意味の世界に生きている訳ではない。子どもの時代を経て、子どもの遊びを見て、そういう揺れ動く確信みたいなものを持つに至っている。
ただ、ひとつ頭に引っ掛かっているのは、
「どうして?」
「何故?」
と尋ねる子どもの姿だった。
それは、意味の世界に生きていることの、何よりの証拠ではないのか。しかし一方でまた、
「それって意味あるの?」
と、幼い時分には決して尋ねることがなかったのも気になっている。
意味も何故も、
「どういう訳なのか」
を問うていることには変わりがない。だから、
「何故?」
と尋ねる子どもは、一見すると意味の世界にどっぷり浸かっているようにも見える。しかし、それは違うと思っている。というのも、
「何故」
という言葉には、
「価値」
を問うという態度がないからだ。純粋に、仕組みの秘密へ迫りたいという欲求には、それが役に立つか否かを問う、
「意味の判断」
は含まれていないのではないか。
価値、意味を問う姿勢を身につけると、生きていく上では便利だ。目標に向かって真っすぐ進む、その為には、
「この行為は目標に近づくものか否か」
を逐一判断しなければならない。よって全ての物事を、
「目標にとって有意味か無意味か」
で考える癖がつく。
そこまでは別に構わない。しかし、便利だからとその道具を使い続けていると、今度は次第にこちらが、その道具の方に使われるようにもなってくるというのは物事の常で、ただ目標を達成するために様々な価値判断を行っていただけのはずが、そのうちいつの間にやら人生自体から、自らの一挙手一投足に価値があるのかないのか、逆に判断されるようなことになる。人生を円滑にするために、便利だからといってただ単に利用していただけのはずの、
「意味」
が、自身の世界をじわじわと、そして気づいたらあっという間に宰領してしまうのだ。
しかし、それは確かに強力だが、あくまでも頭の中だけで起こっていることで、実は今も本当は、別に意味の世界に生きている訳ではないのだ、ということは、自身の子ども時代、あるいは今の世代の子ども、そして今現在の自分の中にも確かにある、ひとつの衝動みたいなものを探り続けることによって、証拠こそないが、確かめ得たと思っている。私がしつこく、
「遊び」
という、意味とは関係のない衝動に拘ってきたのもその為だ。
よって私は、
「人生に意味がある」
とか、
「無いように見えるなら、自分で意味を見出そう」
とか、
「所詮何をやっても無意味じゃないか・・・」
などの言説を、慰めとしては有効と見るにしろ(事実私もよく、これらの言説に慰められる)、あまりその内容自体は信用しなくなった。何故ならそれは、頭の中を宰領している意味の世界から出た言葉だからだ。私はそこにはいない。ここで遊んでいる。意味はない。むろん、無意味ですらない。